003:荒野


不二は痩せて目が大きくなって、髪は長くなって、
でもやっぱり綺麗で そしてもっと俺にはわからない存在に変わっていた。

沈黙を怖れるように囀っていた唇が、
閉じられたまま、大きくなった瞳が じっと俺を見る。
いたたまれずに煙草を吸い、カップに口をつけ、
灰皿を動かしてみたりする俺を
面白そうに見ている。

ふいと逸れた瞳は、前の壁に向けられて、
でも何か俺に見えない空中の何かを見つめているようで、
…多分昔と同じに柔らかい唇が、
薄く開いて、微笑がこぼれてしまう、という感じに、きゅっと結ばれる。

前は、こんなことはなかった。
俺の呼吸が詰まる程、俺の一挙一動に、
臆病な小動物のように反応していた不二。
俺から目を逸らせなかった不二。
それは目が眩む程愛されている実感と、
息苦しい、逃げ出したい圧迫感だった。

もう、俺を愛してないのかな?
だとしても俺は何も言えた立場じゃないけど。
こうして見ているとやっぱり俺の心臓に寄り添ってくる
君の存在をどうしていいかわからずにいる。

俺達の関係をまた恋人と名づけるのが怖い。
君を今度こそ離さずにいられるのか
傷つけずにいられるのか。

最後にはもう俺への愛情という自分で作った籠の中で翼を打ち付けて
血塗れでぼろぼろな小鳥のようだった不二。

あんな不二は見たくなかった。
違うよ英二、僕が言いたいことどうしてわかってくれないの。
悲鳴のような声が俺の耳にこびりついている。

不二が、また突然俺を見た。
細い指が伸びてきて、俺の唇に触れた。
「な、何」掠れた声は情けなかった。
「感触変わったかなあって」


外に出ると、不二の手が俺の手に滑り込む。
俺の手の位置を忘れてない絶妙なタイミング。
強張った俺の顔を、悲しい微笑で見る不二の顔。
何の疑問もなく愛し合っていたあの頃にはもう帰れない。
不二もそれはわかってる。

『こんなに好きになった人はいない。きっとこれからもいない』
別れた後、不二からのメールに書いてあった。


不二は彼女を作っていた。
「不二は、もう、俺を愛してないってこと?」
ああ、また俺のエゴを、不二は引き出す。

「大好きだよ。どうかなりそうな位」
不二は優しく笑った。
「僕が君だけを見てたら、重過ぎたんでしょ。
また、もっと時間を割いて、とか、僕のことを考えて、って要求しちゃって、
英二を追い詰めて、また同じことになる。
英二が他の友達ととか、ひとりで遊んでる間、僕だってひとりでいたら寂しいよ。
他の人といて、気が紛れてれば、そんなに我儘言わなくて済むから」
「…彼女に悪いよ、そんなの」
「英二は悪くないよ。悪いとしたら僕だけ」

もう少し、一緒にいたい。時間を割いてくれないかな。
たまには、僕が行きたいところ、一緒に行ってくれないかな。
不二の要求は、恋人だったら無茶じゃなかった。

でも俺が聞いてあげなかったから、
俺が何にも変わらずに妥協せずにいても
受け容れてくれるのが恋人の筈だって思い込んでたから
不二は寂しがって、悲しんで、壊れてしまった。

「欲しいのは本当は英二だけなんだけど。
でも英二だけ見てたら、僕はまた、辛くなるし、英二に煩くしちゃうから」
「不二…俺は…」
「だから英二が、僕を構うの忘れても、
別に後ろめたく思わないでいいし。
その間、僕、一生懸命彼女を大事にしてるから」

放っておいてる間も、自分だけ見てろ、思っていろっていうのは勝手過ぎる。
その癖そうしたら、息苦しいってまた逃げるんだ。
不二が口にしない非難が伝わってくる。

「誰も傷つけたくないなんていうほど僕の気持ちはきれいごとじゃないんだ。
だけど、英二のせいになんかしないよ。
英二の事は死んだって彼女には言わない。
彼女を傷つけて、殺されたって文句言えないのは僕一人だよ。
英二への恋だけ抱えて廃人になってたとき、
もう、誠実だの忠誠にすがる権利を捨てたんだ」

温度のない笑顔で、淡々と言う不二が悲しかった。
どうして俺なんか好きになってしまったんだろう。
普通の優しい女の子と恋愛していたら、
きっと不二はごく当たり前に誠実に生きられたのに。
そんな風に考えている俺はすごくいい奴みたいだ。
でも俺には判っている。
不二も判っている。

不二の存在をじくじく痛む棘としかもう、思えなくなってから、
それを言葉で伝えるしんどさより、
不二=棘がぼろぼろになって、
俺の肉にしがみつく力を失って落ちていくまで、
ただ、顔を背けて見ない道を選んだ。
その頃の俺は、そんな卑怯な俺にさせる不二を憎んだ。

抜けた後も、傷痕はしばらく熱を持って痛んでいた。
痛みは段々消えていって、不二を思い出すことも、うすら痒い位の感覚になっていくとき、
俺はわざと突き刺すような記憶を掘り出して、傷口を強く押さえて痛みを蘇らせるような真似をした。
少しかさついた唇の感触、さらりと流れる生え際の手触り、耳に触れる掠れた囁き、ヴァニラに似た皮膚の匂い。

自分が悪いと思うことなんか大嫌いな俺が、
君から伝染った、ちょっとした自虐趣味。
でもそれを伝えて、君を僅かに満足させたりはしない。


Fin.