010:トランキライザー


月の光の中で、

兄貴はまた、樹の下を掘っている。

綺麗な爪を泥に染めて、頬についた汚れもそのままで。

「兄貴」

「あ、裕太。お花見?」

…今はもう夏の終わりだ。

「帰ろう」

「ちょっと待ってて。英二がここにいるの、確めたら帰るから」

何度も何度も、掘り返されて、いつも新しい色をしたそこの土は柔らかい。

程なく兄貴は、目当てのものを見つけ出す。


…もう、布の色目も判らない程土の色が沁み込んだ、ボロボロのクマの人形。

「よかった、ちゃんと居る」

滴る汗を拭くと、白い額も半分、黒くなった。

ざくざくと、埋め返して、丁寧に表面を均すと、やっと兄貴は立ち上がった。

晴れやかに笑う顔を、俺は正視できない。

菊丸が、兄貴に遣ったプリント柄のクマ。

菊丸に捨てられて、そのクマを抱きしめたまま部屋から出てこない兄貴が辛くて、

俺は力づくでそのクマを奪って、この桜の樹の下に埋めた。


「菊丸は死んだって思えよ!ここに奴は埋ってるって!」

呆然と見ていた兄貴は、長い夢が覚めたように、普通の生活に戻った…

けれど、月の明るい夜には、『英二』の屍体を探しに、ここに来る。



独占欲、我儘、情緒不安定。

悪いのがどっちかといえば、兄貴だ。

ただ、壊れるまであいつを恋してしまったことを、俺は、罪だと思えない。

他人を心に入れたことがなかった兄貴があいつを受け入れ、

そしてあいつがいなくなったとき、心が崩れてしまった。

それはただ悲しい事実だ。

心が生き返れば、痛みも蘇る。

だから壊れたままでいる。

笑顔が涙の涸れた泣き顔だとわかっていても、

一時の温かみに惹かれて誰かの腕に抱かれてしまっても、

俺には見ていることしかできない。







夜は涼しくなってきたけれど、やっぱり、1mも掘ってると汗が出てくる。

シャベルなんて使えない。

切っ先がうっかり、当たったらかわいそうだもの。

それに、しょっちゅう掘り返すから、

ここの土はいつも、新しい匂いがして、やわらかい。

「…いた」


土にまみれて、もう、目鼻立ちもわからなくなっちゃったけど、

僕には世界一きれいに見える君の顔。

抱き上げると力なく垂れる手足。

ゆすぶっても応えない体。

もう、思いがけない方向に跳ねて僕を置いていったりしない。

ここでおとなしく、誰にも見られずに埋ってる。

逢えないのは、君が死んでここに埋っているから。

もう逢いたくないって言われたのは悪い夢。


そうだよね?英二。


だけど月の明るい夜、僕は桜の下の、君のお墓を発きに来る。

一緒に埋めた僕の心が、土に還らずに僕を呼ぶんだ。

痛い、寂しい、暗くて見えない、

英二がココにいるか、確めてって。





Fin.