020:合わせ鏡


彼が顎から頬に、薄紫の固形ワックスのような荒れどめを擦りつけ、
ぱちんと蓋をしてキャビネに仕舞う。

「お先ッス」

毎日の律儀な挨拶。

鏡の中で頷く俺の眸を確認して、バスルームを出ていく。

後に残る、微かな甘く爽やかな香りは幸福そのもののように俺には思える。

親父さんと同じだというブラシで石鹸を泡立て、
これまた古風なジレットのホールダーを丁寧に使って、
洗って拭いて仕舞い込む彼の朝の儀式は、
電気剃刀で剃って水洗いだけの俺の2倍は時間を食う。


「体毛薄いんだし、そんな毎日剃らないでもいいんじゃないの」

髪だって、量はあるが猫ッ毛だし、

脛も、腋下も、遠目には翳りほどにも色づかない。


ファイヴ・オクロック・シャドウというやつで夕方には黒ずんでしまう俺は、
仕方なく毎朝剃っているが、省略できればその分寝ていたい。

「…男の儀式ッス」

「?」

「男は敷居を跨げば七人の敵ッスから」

「??」

…要するに男が世間に出るのは戦場に討って出る侍なのだから、
身嗜みは欠かせない通過儀礼であるという親父さんの教育らしい。

毎度、いまどき古風な彼の家の躾にはちょっとじんとする。

半身裸の首にタオルをかけて真剣に鏡を覗き込みながら剃刀を使う姿が、
未だに親父さんの真似をする少年じみているところも、
親父さんも弟もお揃いの輸入品の荒れどめで、
いつも滑らかな尖った顎も、出がけのキスのときまでは残っている、その香りも、
彼らしくて、俺は好きだ。

口に出すと殴られるから、言ったことはないけれど。

顔の下半分にばしゃりと水を叩きつけ、タオルから目を出すと、
ドアから覗いている彼が鏡に映っている。


「どしたの」

長い腕が伸びて来て、右耳の下に掌が触れた。

「残ってる」

「え…?」

自分で擦ってみると、確かに剃り残しがちくりと当った。

「サンキュ」

さっさと始末して、もう一度洗い流す。

「昨日もあった。気ィつけろよ」

くるりと出て行こうとするのを抱きしめ、頬ずりした。


「なんだよいきなり!」

「もう大丈夫かな〜♪」

「知るか!」

「大丈夫じゃないと、七人目に殺されちゃうだろ〜v」

「心配すんな、今俺が殺してやる」

首のタオルが引き抜かれ、久々のブーメランスネイクが横っ面を襲った。


「バーカ」


眼鏡を外していてよかった(外しているから、彼もやったんだろうけど)。

湿った位のタオルだから、実はそんなにインパクトはない。


「遅刻すんぞ!」

眉間に皺が寄っていても、律儀に出がけのキスを待っている。


そんな彼のいる幸福な朝。

Fin.