068:蝉の死骸


携帯には、知らない番号が表示された。

とりあえず、出てみた。

「もしもし?」

「あ、不二?元気みたいだねー」

烈しい蝉の声や、ひっきりなしの車の音の中で、

それでも、君の耳は、息を引いた僕の喉のひりつきを、捉えてしまっている。

「久しぶり」

そう、毎日顔を合わせ、会えない時間がじれったいばかりにメールや電話を交して、

君で一杯だった日々はとても遠くなったはずだった。


君のいない日に漸く慣れて、

こんな青くて高い空の下なら、

粉々に、カケラになった心もいくらかは綺麗な色を映せるかもしれない。

君無しでも。


そんなことを思った罰のように。


木陰では、猫が蝉を爪の下に押さえて、楽しんでいる。

食べるわけでもないのに、ただ、短い命の震えを感じるのが楽しいらしい。

君は今あの猫に似た眼で、しなやかな仕草で、

叶わない抵抗に震える僕を楽しんでいるのだろうか。


声も出せずに夏に殉死する蝉のような僕を、きっと君はまたすぐ、忘れていくのに。


*      *       *       *      *

049:龍の牙


「…熱っ」

僕は自分が手にしていたマグに、初めて気がついた。

いつもここで僕が注文していたエスプレッソじゃない。

熱いミルクが沁みて、唇が痛い。

薄暗いテーブルのガラスに映してみると、血が滲んでいた。


言いたいことは多過ぎて、そして時間がたちすぎて、

どれが大事でどれがつまらないことだったのかも、もうわからなくて、

僕は鼻の先から、ん、ん、と反応するのが精一杯だった。

つまらなそうに「じゃ、」と切られた電話の後、陽射しはもう残酷過ぎて。


君も僕もここが好きだった。

ここでたわいないお喋りをするのが好きだった。

独りで見たくなかった緑と白のロゴ。

蜂蜜で甘くしたラテは君のキスの味がして、僕の傷と舌を、遠慮なく灼いた。


皮膚にくまなく埋まった、きらきらする君の欠片の一つ一つが、

何かにぶつかるたびに痛んで、忘れられるなら忘れてみなよ、と囁いている。


君を忘れたら、僕は何を覚えているのかな。


助けて、なんていえなかった僕はもう、どこにもいない。

今度もし電話がかかったら言えるかもしれない。

僕を助けて。

抱きしめて、

かけらを心臓まで突き通して。って。


Fin.