072:喫水線


「少し残ってもらっていいかな」
申し訳なさそうな大石に、肯いた俺のわずかな動きを、
君は見逃さなかったはずだ。
「…お疲れッス」
小さく呟いて、いくらか急ぎ足で、君は俺たちの横をすり抜けていく。
つぷりと柔らかく繊い刺が、指先を刺すような微かな痛み。
得手勝手な痛み。それは心地よくなくもない。
そして俺と目を合わせない大石の言葉を待って、
じりじりと心臓がせり上がるこういう瞬間も、
愉しもうと思えば思えなくは無い、スリル。

「一年で経験者の方のメニューのことなんだが…また乾におんぶで申し訳ないんだけど、俺、どうも煮詰まっちゃって」

膨れ上がって、俺の心臓を圧迫していた風船の空気が、スウッと抜けて、俺は楽な呼吸と一緒に小さく笑う。

(海堂がお前の家から遅くに出てくるのを見た(英二が見たっていってた)んだが)
(海堂はどうしたんだ、桃城がつっかかっても放心してたりするじゃないか)

そんな言葉が出てきたら、風船は一気に、パァンと弾けて、俺の心臓を口から飛び出させるんだろうか?
それとも…?

君と俺が逢っていることや特別な関係に入り込んでいることを、気付いて何かいうとしたら大石か英二だろう。

君は悲しいほどの律義さで俺の言いつけを守っている。

廊下ですれ違ったりしても、頭を下げたきり、俺を眼で追うことすらしない。
ほんとうは表情豊かなあの眼を伏せて、そこに流れているだろう切なさや苛立ちすら悟られないようにしている。
表情を殺した君の顔はやたらにノーブルで、近寄りがたくて、俺はそれを盗み見るのも好きだ。
このぞくぞくする快感は、その顔をさせているのが俺自身で、
そのことを知っているのが俺一人だという
100%、エゴイスティックなもの。

君は決して俺たちのことを誰かに話してしまったり相談したりはしない。
俺自身よりも俺は彼を信じられる。
俺の方が、例えば不二の誘い水にわざと乗って、
ぽろりと、君がひどくあどけない顔で俺の腕に抱かれることなんか、
話してしまいそうで、ひやひやしている。

退屈しのぎに水を向けてくる不二にも言葉を左右にして、
何ひとつ言わないのは、君に対する誠意なんかじゃない。

ただ俺たちの秘密は酷く脆くて、
誰かの手が触れたら、多分俺が知っているうちで一番、
外科医のように繊細な不二の指先であったとしても、
壊れてしまうからだ。

君の心は、それ位無防備で、
俺のような奴に見出されてしまった不幸にもまだ汚れたところがみえない。

「薫のためなんだよ。俺は周りが何言ってきたって、
言い返して丸め込めるし、傷つきもしないしね。
でも薫は違うだろ?
薫は傷つかずにテニスに励んで欲しいんだよ、俺は」

埋もれた横顔から、大きな眼がかちりと音がしそうに開いて、
俺を見つめる。

多分俺の偽善ぶりも、その陰にある狂気すれすれの切望も、
君には見えているけど、
君は、それを表す言葉を知らない。
定義できない感情を、
赦していいのか、怖れるべきかも、君はわからない。

いとおしさと哀れみは紙一重の感情だ。

動物の子供は親や周囲がいとおしく・哀れに・つまりひねり殺して喰ってしまわないように可愛らしく造型されていると読んだことがあるけど、俺は君を頭からつま先まで食ってしまっているわけだから、これは、ちょっと、違うかな…
でも他の奴らが君のいたいけな部分に触れることは許さないでいる範囲で、
君の息の根を完全に止めないように食べている範囲で、
俺は君という動物の仔の親の役割といえないかな。

(全くもって自己中心的な論理だね、乾)
不二が聞いたらこういう茶々を入れる確率、100%。言わないけどね。

古語の「かなし」は「愛し」つまり「どうしようもないほど切なく、いとしい・かわいくてならない」と「どうにも恐ろしい」
「あはれなり」は、なんだっけ、花やら月が「趣がある」とかいうのだけじゃなくて、「心が引きつけられおもしろい・美しい」「かわいい・いとしい」「気の毒だ・ふびんだ」なんて意味。
つまり日本語では同じような感情を重ねる言葉だよな。
どうしようもなく観る者の心を惹きつけて、
その拙さが、滑稽さが、悲しみと庇護欲をかきたてるような存在に、抱く感情。
動物の子供が、まだ巧く歩けなくて、コロリと転がる姿なんか考えたらわかるだろう?滑稽で、可愛くて、愛しい。
君が、自分がされているのを思い出し(そうしろと俺が言うから)切なげに眼を細めて、
俺自身に吸い付く姿は酷く滑稽で、可愛らしいよ。

こうして誰も知らないままに、
(厳密に言えば誰も真相に触れられないままに)
俺たちが終わってしまったら、
それは墓の底まで持って行ける結晶した何かになる。

臍の緒を切って結んで、
俺たちという母体から無傷の秘密を切り離すタイミングを、
俺はいつも息を詰めて狙っているんだ。

そうしたら視野の狭い君は多分、ぼんやりと霞んでいく悲しみを抱えて(いくらか希望的観測入ってます)
俺から解き放たれて、まっすぐに明るい道を歩いていけるだろう。
それは君のため。

デリカシイに欠ける人々に知られて、
心無い言葉にずたずたにされて、
もしかすると俺を恨むかもしれない、
そんな惨めな汚い君を見ないで済む。
きれいなままの俺たちだけの世界を、
透明な箱に入れてしまっておける悦び。

それは俺のため。

そんな風に物事や人の思惑を自分の思うように運べると楽観するあたり、俺もまだ子供です。

例えば、眠りの中で、やっと素直に俺の指を埋める黒髪の手触りのよさをそんなにあっさり手放せるのかさえ、本当はわからない。
予測不能なのに。


*****

君を傷つけたくないんだとまるで子供をあやすような笑みでいうあんたは、自分で思ってるほど強いんだろうか。

あんたは酷く俺をいたいけな生き物に見立てている。
そういう意味での優しさがこもった手指の感触とか、
他愛のない囁きとか、
心地よかったから、
俺は、言葉が巧くなくて、
あんたの大人ぶった言葉の雨に叩かれて
びしょ濡れになって何も考えなくていいところまで運ばれてしまうのも悪い感じではなかったから、
あんたが酷く大袈裟に考えているらしい
俺たちの間のことを、
あんたが秘密にしておきたがっているなら
それはそれで構わない。


だから、眠るふりをしている俺の背中で、声を殺して泣くのは、止めてクダサイ。


Fin.