075:ひとでなしの恋
時事問題というレポートを書きあぐねてサーフしていた姉さんのPCも、
メールを見るんだと追い出され、仕方なくリビングでCNNをつけた。
NYの株式のリポートなんかじゃ役に立たない。
「…ピアノ弾いていい?」
いつのまにか、寝ていた筈の兄貴が入口に立っている。
「いいよ、どうせ音聞いてねえし」
顔はTVに向けたまま答える。
学校の無い日はベッドから殆ど出ない。
夜眠れないらしいが、昼間の浅い眠りも、
涼しくなった今でもあんなに汗をかいたり、苦しそうな息を吐いていては休まっていないと思う。
だが誰も兄貴に病院行きを強制出来なかった。
惰性でこなせる学校はきちんと行って、投げやりな癖に成績は落ちない。
隙を作らない性格が自分を追い詰めているのは判っている筈なのに。
「時間しか薬はないってわかってるけど、あの子しぶとすぎる」
姉さんの、溜息のような言葉が重かった。
ぽつんとピアノの椅子に座っている肩の薄さは、アスリートだった片鱗も見せない。
俺は無理矢理、TVの画面に眼を留め付けた。
滑らかな音が流れ出す。
聴き覚えのある、複雑な旋律。
タッチは今の兄貴が奏でているとは信じられない位くっきりと正確だった。
今、振り向いてはいけないと思った。
紅葉が綺麗な街の画面にテロップが走っていく。
「2000年には医療制度や税制の扱いの平等だけでなく、市役所での結婚式も認められてバーモントに移住する同性カップルの増加は…」
バーモント。
頭の中で、いくつものことが結びついてスパークした。
リストの「愛の夢」。
習っていた頃発表会で弾いた曲を、遊びに来た菊丸に聴かせていた兄貴。
床に座りこみ、ピアノの椅子に頭を凭せた菊丸。
「キレイな曲だにゃー。…ずーっと、聴いてたいな、不二のピアノ」
兄貴は微笑った。
あんなに無防備に、幸せそうな表情は前にも後にも見たことがなかった。
…それから兄貴が猛烈に英語をやり出し、
グリーンカードだの、アメリカ、カナダ、オランダへの移住に関する本を部屋に積み上げていたのは…
兄貴は、悲しい程に真剣だったのだ。
二人の未来に。
菊丸がその手のことに全く頼れないのが分っていたから…
でも、あいつがそんな真剣さから逃げ出すことは、分ってなかった。
「周助、…Liebestraume、弾けるの?あんたもう、弾けるのね?」
弾き終えていた兄貴を、姉さんが抱きしめていた。
姉さんの涙声なんて、俺は生まれて始めて聞いた気がする。
「…あの時姉さん、もとのリートの歌詞、教えてくれたよね。
『愛することが許される限り愛せ』って。
…僕が諦められなくても、思いがとめられなくても、英二は知らないんだから、迷惑じゃないと思うんだ。
…許されるよね。諦めること、諦めちゃってもさ」
「許されなくたって、やめられないんでしょう?」
「あはは、わかる?」兄貴も、ぎゅっと姉さんを抱き返した。
「もう、観念したんだ。この思いを無くしたら、僕はいないんだよ。だから逃げないでこのまま生きてく」
彼を思いながら。彼を恋いながら。彼が自分を忘れていっても。
唇の柔らかさも、掌の温度も、時折投げられた泣きたい程優しい言葉も、
どんなに大事に蔵っておいても、色褪せて香りも失っていく。
もう新陳代謝されない恋の記憶。
でも彼を恋する細胞は、日々新しく生まれている。
この思いは空気を伝って彼に届くと何故か今朝からは信じられた。
彼の眼にも耳にも留まらなくても、彼を守り いつくしむ 柔かな風のように。
彼には幸せになって欲しい。
自分がいなくても。いない方がいいのでも。
そう思うとまだ胸は鮮やかに痛いけれど、笑うことも思い出してみようと思う。
彼が好きだといってくれた笑顔を。
自分を見ていてほしい 自分のことだけ考えてほしい
言葉にすると陳腐な恋愛の常套句
でも 誰もが同じなのに 自分だけの歓びと悲しみになるのが 恋とか 死とかそういうもの
彼が言ったわけじゃないけど、彼を通じて僕は知った。
もしもう一度会えたら 今度はもっと 優しくしたい。
僕を時々振り返って あの笑顔を見せてくれるなら もうそれ以上望まない。
幸せになるのが 僕は下手だから。
思い通りにしようなんて思わない。
君の笑顔 君の幸せ それが僕の望むものだから。
Fin.