080:ベルリンの壁


「あの干し方、なんか悪意感じるんだけど」

「頭重いんだからしょうがないよ」

開け放ったフランス窓に座って、
兄貴と彼はレモネードを飲んでいる。

その肩の間から、逆さまに干された熊が、
ぶらぶら揺れているのが見える。

あの朝の空の色がどんなだったか、
思い出そうとしても、
今朝の太陽はまぶしすぎて、
そんな切れ切れの記憶は灰にしてしまう。

秋、だった。
俺はヒスの薄いボーダーセーターを着て、
少し伸びた袖口ばかりを見ていたのは覚えてる。

「お兄さん、いる?」
彼はいくらか髪が短くなっていた。

あんたが壊して、放っておいたんじゃん。
もう、何も残ってないよ。
確認したいわけ?

なぜ、俺の喉が痛かったんだろう。
傷ついたのは、俺じゃないのに。

「周助なら、部屋よ。裕太、ご案内して」

いつのまにか、姉さんが後ろに、立っていた。

彼は独りでも行けるはずなのはわかってるのに。
俺は黙って階段を上がった。
ゴトン、ゴトンと、重い足音がついてくる。
何度も会ったわけじゃないけど、
印象に残っていた肉食獣の敏捷さを、彼はいつ、失ったんだろう。

兄貴は、机に向かって何か書いていた。
ノックして、振り向いた顔を見なかった。
その後も、ずっと。

「裕太、居て。…頼むから」
俺が腰を降ろしたベッドの横に、
ぽすんと、兄貴が並ぶ。

その音の軽さと痛みを、彼につきつけたかった。

目の端に入る、肩を窄めた兄貴の顔は、
垂れた髪に隠れている。

彼はわずかにためらい、
兄貴の前に、膝を抱えて座り込んだ。

「聞いてた。テニス部の後輩とか…6組だった奴から。
だけど、どうしていいか、わかんなかった。
精いっぱい考えたけど。

…元には、戻れないじゃん」

兄貴の肩が、びくりと震えた。

やっと、痕になりかけてたのに。
生傷から、消えないようなのでも、痕になってたのに。
あんたは何をしたいんだ。

「俺だって辛かったんだよ」

「…わかってる。君を追い詰めたのは僕だし、
悪いのは僕だって、わかってるから。…ごめん」

平坦な声は、反芻し尽くした感情の搾り滓だ。

「−じゃなくて!そんなん聞きたいんじゃないんだって!」

自分が上げた声に驚いたように、彼は息を呑む。

兄貴は、黙って、膝を掴んだ自分の手を見ていた。

「…ごめん」

彼は、起ちかけた膝を進めて、
兄貴の手に手を重ねた。

俯いた顔を、覗き込んだ。

「ココロが死んだなんて、思っちゃダメなんだ、不二。
カラダもココロも、傷ついてもまた治る。
きっと治る。

俺、不二がカラダ滅茶苦茶にしたり、
ココロなんか要らないみたいにしてると、苦しいよ。
恋してたときよりずっと、心配なんだよ。

だけど元に戻ろうとしても、俺、また不二を傷つける。
不二の淋しいときを埋められないし、
俺が好き勝手して、不二が悲しんだり怒ったりして、
…だけど俺、変われない。
俺はそういう自分勝手な人間でしか居られない」

もういい止めろどっか行け独りでよそで自分だけ大事にしてろよ!
叫ぶ代わりに、セーターの袖口を握った。

「不二好きだけど、大事だけど、
俺、不二の恋人になっても、幸せにできない。

だから、終わっちゃう、恋は、もう、俺とはしないで。

俺、不二の味方で居るから。

不二が他のひと、好きになって恋人になっても、
不二が人殺しても、何しても、
俺だけは不二の味方。一生、絶対」

ばたばたと、彼の手を濡らしたのが、
彼の涙だったのか、兄貴のだったのかはわからない。

兄貴は彼の髪を撫でて、

「ありがとう」と、言った。
小さな、小さな声で。


多分衝動的な彼の言葉を、
兄貴がどれほど信じたのか。

「…言っているそのときそのときは、本気なんだと思うよ。
ただその気持ちで居られない…
ううん、そのとき、言葉どおりのことを想像したら、
満足しちゃうんだろうね。
多分実現しそうな夢を見られたら、それで完結。
僕みたいに、現実にしたいなんて欲はないんだ」

彼は夢を食べて腹いっぱいになれても、
それを分け与えられた人間は、空っぽの掌を見つめて困惑するしかない。
彼の呉れるものを観ることは出来ても、
兄貴の頭は、それが空気だと判ってしまう。

…彼がどんな人間か理解していても、
彼が自分の望むものを与えてくれないと判っていても。

好きだったんだ。
どうしようもなく。
理由があることじゃなくて、
多分言葉にならないものだったんだ。

今でも、彼がぼろぼろの僕を見たくないなら、
そうしないで居ようと思う。

気が咎めるなんて、慣れてないんだから、
可哀相でしょ。

そういって、兄貴は、昔のように、笑った。

きれいごとも、ときには必要かもしれないんだからさ。


フランス窓から、彼が、ピョンと、飛び降りた。

「あーあマックロんなったな」

「僕のらしいでしょ。ヒグマっぽくて」

「かっわいくねーの」

「ごめんってば」

指先が、磁石のように引き寄せ合って繋がれる。

その度に兄貴の背中は、薄らと、揺らぐけれど、
いつか痛みは色褪せていって

きれいごとに、現実もココロも、
シンクロしていくのかもしれない。

こんなに空が高いので、
そんなきれいごとを、俺も信じようと思った。



Fin.





一応菊不二アイタタシリーズ救済編です。
救済になってるのやら…