貴方というひと



慣れない、生温かいひとごみの中で、

俺は、すぐ押し流されてしまう。

見慣れた頭は、一段と抜きん出て、

見失うことは無いけれど、

少しずつ、遠ざかってしまいそうで、

ひどく心細くなった。



「観たい映画あるんだけど、付き合ってくれないか?

都内、渋谷と吉祥寺でしかやってないんだけど…いいかな?」

郊外に住んでるから、映画も大抵、

広くて空いているシネコンで観る。

ひとごみが嫌いな俺は滅多に週末渋谷なんか、行かない。

でも先輩は休みに一人で居ることが多いから、

一人が嫌いなのだ。

「いっすよ」

眼鏡が無いと、ほんとは、かなりわかりやすい表情をしてる。

…そういうときは、唇や、抱き寄せる腕や、

直に感じる鼓動が総動員されてるからかな、と思う。



先輩が片側で引っ掛けているブックパックの、

空いている方の紐を、握る。

引っ張らないようにしたつもりなのに、

先輩は、すぐ振り向いた。

「離れちまい、そうだった、から」

渇いた喉に詰まった声が、カッコ悪い。

俺、すげえカッコ悪い。

先輩はほんの少し、唇もとを緩めた。

沢山の人の流れは、立ち止まった俺たちの背で割れて、

また合わさっていく。


紐を握った手が、暖かい手に包まれて、そっと、離された。

やっぱ…ヘンだよな。

わかってるけど、鼻の奥がつんとして、

俺は顔を上げられない。


でも、暖かさはそのまま、俺の手を包んでる。

「行こうか」

低い声は、いつものように、平坦で大人びて、

こんな風に、子供っぽいことをした後は

余計に遠い感じがする。

だけど、かすかにくぐもった、その声音が、

ざわめきの中でも何か、違う色を帯びているような気がして、

俺は思わず視線を上げた。

ずれてない眼鏡を押さえるのは、

この人が、ことさら、表情を悟られたくないときだ。


俺たちは動き出して、

また人波に溶け込んでいく。

でも俺には誰の顔も見えない。

見えるのは、

寒さだけでない色をのぼせた、耳と、

汗ばんだ、大きな掌。


ただそこが繋がれているだけで、

体中暖かくなる何かが、伝わってくる。



俺を一番良く知っている掌。

俺が一番良く知っている掌。

俺が一番、大好きな掌。


Fin.

2004年乾貞治眼鏡祭に出品したものです。
カッコイイ先輩というテーマだったのにどうもいまいち。