44  バレンタイン


「へぇ、こりゃまた、目の保養になる面子じゃない?類友、って?ねえ?」

明らかに、プロがきちんと四角に整えた爪だが、ニコチンの染みは消えずにある。

深い襟ぐりの陰で、鎖骨に滑らせた指は、それ一本で、

残酷に比沙子の心臓を突き刺しているように、蓮実には見えた。

(こんな時に限って、言った通りに来るなんて)

蓮実は唇を噛んで、無精髭と、嫌味なほどぴたりと首に合った、

ブルーのピンストライプのシャツが、奇妙に調和している男を睨んだ。

一瞬、切なげに皆を見て、伏せられたままの比沙子の眸がなかったら、

トマトジュースを浴びせてやりたかった。

けれど、この男はそれこそ、蛙の面で、何も無かったように、

今と同じで、隣のテーブルの椅子を傍若無人に引き寄せて座るだけだろう。

(あんなに、楽しかったのに)

ほんの数分前までは。



蓮実の眼は、テーブル一杯に並んだ、一輪挿しや、皿や、グラス越しに、

悟浄と八戒の視線が絡み合う瞬間を捉えた。

(あっためた牛乳の膜みたい。言葉ひとつ乗せるにも薄すぎるけど、何か、繋がってきてる)

眼をきゅっと反対端に動かすと、

三蔵は、ひたすら目の前のパスタを口に運ぶことに専念しているようにしか見えない。

(こういうとき、取り成すようなことしないよねえ、この人…

でもさっきのピリピリした中だと、こういうけろっとした態度が一人居るだけで、

なんていうか、空気抜きになって助かるけど)

「比沙子さん、このお魚のマリネ、少し召し上がりませんか?

マスタードとディルの風味が効いててすごくおいしいですよ」

「あ、じゃあ、一口頂きます。悟浄、ちょっとごめ…」

「いや、いいから」

自分の斜め前に身を乗り出しかけた比沙子を片手で制し、

悟浄は身軽に起って、八戒の差し出した皿を取った。

「そっちのフォーク、使ってない奴っしょ?それも取ってくんない、八戒さん」

「ええ、どうぞ、悟浄さん」

(…心配するまでもなかったか。中学生日記じゃあるまいし、

今更、テーブル越しに握手して、「さっきはごめんね」なんてやり合う位なら

こっ恥ずかしくて死ぬもんね、悟浄)

蓮実はにやにやしかけるのを誤魔化しがてら、悟浄の前のスモークチキンサラダを引き寄せた。

「おい、それ俺のだけど」

「細かいこと言わないの!」

わざと口を一杯に開けて、ボウルに残っていた鶏肉と水菜をかき込む。

「うっわ色気ねえ!」

「ふぇえふぉふぉふぉまえれふから(ええ漢前ですから!)」

「口にモノ入れて喋んなって、三蔵そういうのうるさいぞ」

「口開けないでいるから構わねえけど、何言ってんだかな」

「『漢前』でしょ?僕が女の子で、蓮実さんが男性だったらもう、

『この人にならあげてもいいv』って感じですよ」

「そっ。あたしも人生で会った漢前って蓮実ちゃんが不動の1位」

八戒と頷きあう比沙子の笑顔に、漸く明るい色がさしている。

蓮実は嬉しくなって、もぐもぐ口を動かしながら、しかめっ面を作って指を振った。

「『チッチッ、オジョウサン、オレニホレルナヨ、ヤケドスルゼ』」

悟浄が合成音風に台詞をつけ、皆がフォークを置いて笑い出す。

三蔵まで、口を押さえて肩を揺らしていた。

「…あ、ごめんなさい」

比沙子が、断続して震える携帯を掴み、テラスの端に寄った。

「はい、友達と食事してて…いえ、すぐ行き…え、場所?あの、で、も、

…ええ、インター降りてすぐ右に入ったそこですけど…あっ」

席に戻ってきた比沙子の顔は、また、色を失っていた。

「…あの男(ひと)?」

「う、うん…今、うちの会社に来てたみたいで、ココに、来るっていうの…ごめんなさい」

「何で、チャコが謝るのよ、謝んなくていいってば」

(また、そうやって期待させといてすっぽかすんでしょうに)

事情を知らない三蔵や八戒の前で、そこまでは蓮実も口に出来なかった。

「比沙子さんの彼氏さんも合流ですか?どんな人?どの位のお付き合いなんですか?

なんて、立ち入り過ぎかな」

「派遣先の、経営者です…今年のバレンタインから、です。バレンタインっていうかホワイトデイからっていうか…」

「じゃあ、半年位なんだ、今どんな感じなんですか?僕、ほら、人のもの、気になっちゃう性質なもんで」

「折角いい感じになってきてんのに、蒸し返すなよ。それにチャコと付き合ってんだからソッチの気、無いだろ」

「いやぁ、僕そういう人だって落とす自信ありますよ、魔性ですから、あはは。

でも比沙子さんみたいな美人で一途な彼女が居たら、確かに分は悪いですね」

(この際、取っちゃってもらいてぇよな)
(チャコもそれで楽になれるし)

悟浄と蓮実がついたため息は、甲高いエキゾーストノートにかき消された。

アウディ・クワトロが、対面の路上に強引に停まって、

数歩でテラスに上がってきた男の眼鏡のレンズが、常夜灯に、オレンジに反射した。






045 年中無休 


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