027 電光掲示板


「こぼすんじゃねぇぞ」

「へーい」

三蔵が向い側に腰を落とした途端、
悟浄は自分の缶とパンを持ち、後ろに回り込んだ。

「何してんだ」

背中に、遠慮がちな重みがかかり、
薄い布越しの体温が熱い位だった。

「−今日はこういう体勢で。頼んます」

「しょーがねぇ奴」

何度目の台詞だろうか。

「うん、今日はとことんそのポジション居さして」

「ま、いい。食え」

「ん」

お互いにもくもくとパンを咀嚼する動き、ビールを流し込む動きが、
ダイレクトに伝わってくる。



始め、DKの椅子に座れ、と勧められて悟浄は、

「アッチ、行っちゃダメか?俺、椅子に座って飲むの好きじゃねぇんだ」

と上目遣いで言った。

布団が片付けてあっても、寝室で飲み食いするのは三蔵には抵抗がある。

だが、今夜、これ以上誰かに拒絶されたら、
悟浄はばらばらになってしまいそうに見えた。

三蔵は黙って、顎をしゃくった。



べコンと缶を潰す音がして、さらに背を丸めた悟浄の背骨が、
ごつんと三蔵の背骨に当たる。

「明日から俺、どんな面して蓮実に会えばいんだろ…兄貴も」

「…そん位、考えてから動けよ」

「考えてたら動ける訳ねーじゃん」

搾り出すような、溜息が聞こえる。

「失くしたら辛いもん、持たねえように、持たねえように、
なんて生き方、寂しいって、何でわかってくんねえのかな」


咽喉がひりつき、三蔵は食べかけのパンを袋に戻した。

向かい合っていなかったことが有難かった。

「兄貴のことが大事だから、そんな生き方して欲しくねえのに」

膝に顔を埋めたらしく、くぐもった声だ。

「三蔵が兄貴の立場だったら…一番身内の人間がそやってお節介焼いたら…どうする?」

身内に一番近いとしたら、捲簾だろう。

だが彼が三蔵の生き方に口を出したことはない。

折に触れ、それとなく様子は聞いたり伝えたりして来たが、
指図も否定も一切したことはない。


「あの人」もそうだった。

だから余計に、
最期に一度だけ、
自分以外にも、三蔵のことをわかる人間はきっといるから。
怖がらずに心を開いてみなさい、と言った言葉が胸に残った。

けれど、そうしていい人間かどうかはどうしたらわかるのか。

あのときは訊くことすら頭に浮かばなかった。

「あの人」が居なくなって自分をどうやって支えるのか、
それだけしか考えられなかった。

葬儀も、家の後始末も、
やはり「あの人」が育てた年かさの人達と捲簾が取り仕切るのを、
何か霞の向こうの出来事のようにしか覚えていない。

根を張った何かがめりめりと引き抜かれた後に、
満々と湛えられた悲しみは、
身体を揺らす度に灼けつく痛みを内壁に与えて、
その痛みだけが、鋭い現実だった。

いつのまにか薄れたような気がしても、
思い出す痛みはあまりに鮮やかだ。

もうあんな思いはしたくなかったから、
心に誰かを入れたくなどなかった。

なかったはずなのに。

今背中に感じる温もりが、心地良い。

人懐こい悟浄は、めぐり合わせで居合わせた自分に
凭れ掛かって来ただけかもしれないが、
それでも幾らか支えになってやれていると思うと、
痛みの記憶を押し流す、温かい、やわらかいものが湧いてくる。

けれどこういう気持ちは、誰かに強いられて持つことは出来ない。
その感情の名前すらわからなくてもそれだけは明らかだ。


「お前が心配する気持ちは、慈燕、さんだって判ってるって、
お前が一番知ってるだろ?

だけど、慈燕さん、の中に蓮実、さんが入っていけるんだとしたら、
慈燕さんがどんなに抵抗したってそうなっちまう。
…そうならなかったら、誰かが説得して出来るってもんじゃない。

蓮実さんがどんなにいい子でも」


悟浄の背中が、大きく震えた。

「判ってる…判ってんだよ、三蔵の言うこと全部正しい、

何で今日って皆俺よか正しいことしか言わねえんだよ、

俺、すげーみじめじゃん」





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