003:荒野
最後に人の体温を感じたのはいつだったろう。
…「あの人」が世を去ってから、もう二年にもなるのか。
「カーテンを引いて。電気を消してみて下さい」
端正な横顔が、光の島のような街の景色に黒く浮かび上がった。
病院は高台にあって、春は桜並木が綺麗に見えた。
けれどあの時は冬で、葉も落ちた樹だけが景色に線を引いていた。
「あの沢山の光のもとにそれよりも沢山の人が生きて暮らしているんですよ」
「…そうですね」
「その中にはあなたのことをわかってくれる人が必ずいます」
彼は、傍らに座った三蔵の頭を撫でた。
幼い頃のように。
「そんなに淋しがられたら、私は安心して逝けないでしょう?」
あの人は、桜の盛りを見ずに逝った。
無数の光の中に、自分が帰って行く場所はない。
そこにどれだけの人がいても、自分に有縁でなかったら、
何もないよりも、寂しい眺めになるようにも思える。
小春屋の主人夫婦の優しさは、
年長者らしい、ふわりとした手触りで、
あの人の与えてくれたものに、通い合う何かがあった。
嬉しさも素直に表せない自分を
余計な言葉抜きでくるみこんでくれる、
温かい空気。
毎日のように馴染んでいく一方で、
この安らかさに狎れるまいと三蔵は努めていた。
いつかはこの夫婦も店を畳み、自分の前から消える。
そのとき、また、生木を裂くような痛みを味わいたくなかった。
「生者必滅、会者定離」
これも、あの人の口癖だった。
そう言いながら、何故あんなに穏やかに微笑って居られたのだろう。
自分が若すぎるだけなのだろうか。
年配の夫婦相手なら、なだらかに、
淡いままで押し留めていられた感情が、揺れ動いている。
戒めを築く間もなく、するりと近づいてきた、悟浄。
こんな親しみは知らなかった。
唇を噛むと、微かな甘さが残っていた。
指先まで燻りかけていた煙草を、
灰皿に押し込む。
階段を降りて辿る道からは、
突き上げるような土と緑の匂いがした。
春がまた来る、でも、今までと同じ春だろうか、と思いながら、
三蔵は足を速めた。
004:マルボロ
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