40:小指の爪

「その左の、黄色っぽい壁の…そう、そこだ」

「駐車場の入口どこ?」

「住んでる奴が管理人室通すとか言ってたな」

「そんなん、待ってられないから、路駐でいいよ、行こ」

「って、店の車引っ張られたらヤバイだろお前」


「あたし、残る」ずっと黙っていた比沙子が言った。

「免許あったっけ?」

「取ってから乗ってないけど…パトカーに言われたら電話入れればいいでしょ。
それに、あたし、捲簾さんにこういうとき会いたくない。
これからも髪を切りに行くのに、お互い知らなかった振り、するのは気まずいもの。
あそこ、あたしの貴重な癒し場なんだから。ね、お願い」

「…判った」

蓮実は比沙子の掌に抜いたキイを落とし、その上から一瞬、ぎゅっと握った。



間接照明が柔らかいエントランスで、悟浄と蓮実は顔を見合わせ、肩をすくめた。

「また、彼電待ちかよ?」

「うん。今日もじーっと家で待ってるっていうから、どこに居たって同じだし、

うち来る途中呼び出しかかったらそっち行っちゃっていいって言ってうち、呼んだの。

今度のは、家には来ないらしい」

「ふーん…アレつき?」

「少なくとも今は、バツ3つめだって」



エレベーターのランプが着々と下がってくる間、全員の頭に、重たい沈黙がかぶさっていく。

強すぎる光をこぼす箱に納まるやいなや、

蓮実はぱっと振り返り、茫然と立っている天蓬の肩をゆすぶった。

「ねえ、天ちゃん、チャコは、彼の呼び出しがあるかもしれないってだけで、

休みも早起きして、綺麗にお化粧して、誰とも約束しないでじっと部屋で待ってるの。

洗濯しててもトイレ入ってても携帯離さないで。チャコのあいてがいつも、

かけ直したら出ないような奴ばっかってのもあるけど。

残業帰りでくたくただって会えるって言われると

一時間も電車乗って行って一時間逢って、二時間かけて帰ってくるの。

メール着信音したら9割エロメールってわかってても飛び起きて見るし、

着歴も他のは消しちゃって彼の電話しそうな時間は絶対かけなくて、

そりゃ、あの子やりすぎだけど、優しくしてくれない奴にばっかくっついてしょうもないけど、

でも、あたしだって、他にも一杯あたしの知ってる人、皆、

好きな人と少しでも長く一緒にいるために、バカみたいに一生懸命なんだよ、

だから、天ちゃんだって、そんなビクビクしてないで、頑張ってよ」

感情が込み上げすぎたのか、真っ赤になってしゃくりあげる蓮実の頭を、三蔵の手がポンポンと撫でた。


「あんたも、車に戻った方がいい」

「…っ、でも」

「比沙子…さんか、さっき、チラッと見えた。指先、小指の爪だけボロボロに噛まれてた。
一人にしといていいとは思えねえんだ。俺や悟浄より、あんたが適役だろ」

「…うん、わかった」

「落ち着いたら、車転がして帰っていいぜ。俺のケータイにメール入れといてくれればいいから」


チンと、扉が開く。

そのまま下向きにランプがついた箱で、蓮実が手を振った。

天蓬はずっと俯いていた顔を上げて、拳を見せた。

「負けるな天ちゃん!」

「はい!」

涙の残った目尻で笑った蓮実の顔は、悟浄の眼に、焼きついた。

(ああ、撮りてぇな。ああいう風に、感情が溢れて弾けてるみたいな人の顔)

「行くぞ」

三蔵に肘を小突かれ、ぼんやり取り残されていたのに気付く。

急にきびきびと歩き出した天蓬は、ベルトにくくりつけた鍵をドアに差し込んで、深く息を吸って止めた。

「行きます」

押し殺した声でそれだけ言った、天蓬の顔は、悟浄に、

写真集のどれかで見た、処刑されるために、収容所の庭のようなところに引き出されて、

立たされている若い兵士の顔を思い出させた。

「おーう、遅かったじゃねえ、電話出ねえし…あれ?三蔵?悟浄もいんの」

呑気な捲簾の声に、最悪、寝室に天蓬が飛び込んで…

といった修羅場さえ予想していた悟浄は、カクリと膝を折られた気分になった。


リビングダイニングの椅子で、捲簾はのんびり、ビールを注いでいて、

カウンターに仕切られたキッチンからはトマトソースのいい匂いがしている。

「来るなら連絡すりゃいいのに…美味いつまみ作って貰ったのにあらかた俺、食っちゃったよ」


「兄さん、帰ったんですか?」

キッチンからパタパタと足音がする。

三蔵と悟浄は生唾を呑んで、顔を見合わせた。

(声、まるっきし同じだな)

(こういう場合、どうすりゃいいんだ?俺たち)

「八戒さん、紹介するわ、俺と義兄弟の三蔵。三蔵のダチの悟浄」

「もう、捲簾さん、僕に、『さん』なんて要らないって言ったでしょ。
どうも、兄がお世話になってます、弟で八戒と申します」

ゆるめのダンガリーシャツにチノパン。

80年代なら爽やかな少女漫画のヒーローだが、

今だと、こざっぱりはしているものの、微妙にズレた感じの装に、

捲簾の緑のエプロンをつけてにこにこしているのは、

天蓬と瓜二つの青年だった。

(そっくりだ…だけど、何か違う)

髪も、古いタイプの二枚目がよくやる長めのヨコワケで、
眼鏡もかけていないから、見間違えるはずはなかったが。

写したようなその顔だちに、何か、天蓬の中には見慣れないものを、二人とも見ていた。

「お前らの分のメシは無いのよ、今晩は。悪いな、なんか取る?」

「すいませんねぇ、僕のオムライス、途中から増量って出来ないんです、
中味、炒めるんじゃなくて炊いてるピラフなんで」

「…あ、いや、長居はしないから」

三蔵は、曖昧な口調で言って、悟浄をつつく。

(何とかしてくれ!)

(何とかできねーよ!)

「何しに来たんだお前たち?」

捲簾も怪訝そうに二人を交互に見た。

「あ、えーと…」


「帰れ」

低い声が響いた。

(俺たち…?)

(いやむしろ帰りたいけど!)

二人はおそるおそる、天蓬を振り返る。

その間をかきわけるように、天蓬は進み出て、八戒のエプロンを毟り取った。

「僕ですか?」

「他に誰がいる?帰れって言ってんだよ」

シャツの襟元をつかんでいる手を、そっくりな手が、ゆっくりひねり上げる。

「手を上げたって僕には勝てないってわからないですか?」

にこやかなままで、声のトーンすら変わらない。

「僕を追い出そうってんなら、兄さんの過去のナニ、洗いざらいぶちまけますよ。
兄さんが薄情に忘れちゃってる分までね」

「殆ど全部、お前が横取りしたんだからそりゃ覚えてるだろうさ。
でも捲簾はリストに入れさせない」

「やだなぁ、そんな気で来たんじゃないのに。
僕は久々に、純粋に、兄さんの顔を見に来たのに、そんな意地悪言うんじゃあ…」

天蓬の肩越しに、顔中に広がる笑み。

毒々しいやりとりが聞こえていなければ、むしろ無垢に見えたかもしれないほど綺麗だった。

背中に汗をだらだらかきながら、悟浄はつい、見入ってしまう。






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