015:ニューロン



「牛乳にウィダーって…もう少しなんか喰わなきゃ」

「今、受け付けねえんだ」

言い募りたいのを飲み込んだ悟空の顔色が目に入ったらしく、

三蔵の唇もとが、苦笑に緩んだ。

「じゃ、果物位頼む」

「うん!」

「財布持ってってくれ」

三蔵はYシャツのボタンを外しながら、浴室に入っていった。

シャワーの音がしはじめると、

悟空はそっと、洗濯機と洗面台の間に座り込み、

ドアの向こうに耳を澄ませた。

乾燥機一体型の洗濯機の横には、2、3日分の山が出来ている。




翌日休むのに、必要な指示をしたいと病院に悟空を呼んだものの、

三蔵は、何かが切れたように昏々と眠ってしまった。

夜明けに目を覚まし、帰ると言い張った三蔵に、

悟空もどうしても随いて行くと言い張った。

「指示、聞いてないし」

その一言でぐっと詰まった三蔵をタクシーに押し込み、

勝手知った道を運転手に伝えた。

「お前も一度帰って寝た方がいい…呼び立てて悪かったな」

「いいってば」

ドアの横に手をついた三蔵から、

そっと鍵を取って開けても、

まだ、抗う元気はないようで、溜息だけが聞こえた。

上着がかかったままの椅子に沈み込む横をすり抜け、

冷蔵庫を開ける。

「…ナニこれ」

冷やして使うアイマスク、ミネラルウォーター、だけ。

そういえば、ここ数日、三蔵が口にしているのを見たのは、

サプリメントゼリーと、飲み物だけだった。

「なんか買ってくるよ、何がいい?」

「後で自分で行く」

「また倒れたらって心配したくない」

「…牛乳とウィダーでいい」




水の音は、安らかに眠気を誘った。

「…何してんだ、お前」

バスタオルを腰に巻いただけの三蔵が、

呆れた顔で覗き込んでいる。

悟空は、耳のうしろが熱くなった。

「今度は風呂場で一人にしといて大丈夫かって…」

「俺があっちでぶっ倒れててめえがそこで寝てたら同じじゃねえか」

さっぱりして気分がよくなったらしく、

別のタオルでがしがし頭を拭きながら出て行く足元も

帰ってきたときのように危うくはない。

ガタッと抽斗を開け、下着とジーンズを履くと、

浴室のドアのところに立ったままの悟空に、タオルを投げた。

「洗濯物に入れといてくれ」

「やろうか?洗濯」

「いや、寝てからやるから」

ばりばりと高い音を立てて袋を破り、

三蔵は新しいシャツに袖を通す。

濃い紅に、鮮やかに金髪と白い顔が浮かび上がる。

(…あんなの着たの、初めてみたな)

悟空の頭に、病院ですれ違った、

背の高い男の姿がかすめた。

暗い廊下で、こんな色に見えた、長い髪。

自分を呼んだのはあの男だったのだろう。

(…友達なのかな)

「明日専務が聞いたら、また電磁波だって騒ぐよな」


あえて、必要もない軽口を叩く。


自分が近くに居続けられるのは、

三蔵の内側に不要に踏み込まないからだ。三蔵からも。

夫婦でも家族でもない人間が、

多分誰よりも長く、共同作業をしながら一緒に過ごす、

会社という組織で、甘ったるく余分な感情を共有し続けたら、

いずれは飽和する。

いくらうんざりしても、顔は突き合せ続けなければならない。

その上自分たちの業種は、昼夜ぶっ通しに、

同じ箱に詰め込まれた鼠のように居ることさえ珍しくない。

施設で育った悟空は、社会に出る前から、

他人の群れの中での摩擦回避に慣れていたけれど、

余計な馴れ合いを要求しない三蔵と働くのが好きだった。


銀行から来た専務は、技術者中心の会社では毛色が違う。

一時騒がれたPCや携帯の電磁波が悪い、という説に固執して、

社員の病気は皆そのせいにしたがった。

「まあ、あながち嘘でもないけどな。

お前もナノテクの講義できいたろ。

シナプスの放出はニューロンの細胞膜が活動電位起こして始まるんだから、

電波の中でニューロンが影響受けないとはいえねえよ。

…明日の○○共済のシステムだけどな」

三蔵は鞄を引き寄せ、ノートを開いた。

「そこ、何時間置きにダウンさせるかはきっちりやれよ」

「サーバ自体は余裕がある。でもアクセス集中が10時と12時だから、

社員が出てくる9時からじゃダメだし」

「イントラネットでのチャージ入力との連動はテストしたな?」

「昨日までのところは問題ないけど、

××信金のときみたいなバグの危険はやっぱりあるし、

もう一度やっとく」

悟空がメモも見ずに受け答えしているのに気付くと、

三蔵は肩をすくめて、ノートを閉じた。

「…指示なんて要らなかったな。お前、俺よりちゃんと把握してるぜ」

「三蔵、三件もかけもちしてたじゃん」

いつもなら、一件に集中できないことを嫌うし、

チームへの仕事の配分をまず優先していたのに。

とにかく一人で仕事を抱えてしまえば、量は大変でも、

説明も進行の手間も要らなくて気楽だが、

それではその一人がやれなくなったとき困る。

部下も育たない。


だのに、ここ10日ほどは、

会社でも過剰にプロジェクトを抱えていたとはいえ、

三蔵は取り憑かれたようにがむしゃらになっていた。



「寝る。携帯入れとくから、

どうにもならなくなったら呼んでくれって、

他の現場の奴に伝えといてくれ」


三蔵は布団を出し、

充電器に乗せたままの携帯を枕元に引っ張ってくると、

シャツだけ脱いで、ごろりと横になった。


「じゃ、食い物買ってくるよ。

寝てたら鍵かけて新聞のとこに突っ込んで帰るから」

「ああ、頼む」

ドアを後ろ手にそっと閉めると、朝の陽光が突き刺さってくる。

思わず目をつぶって深く息をついた悟空の瞼の裏に、

三蔵のシャツの色彩が浮かんだ。


016:シャム双生児 




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