39:オムライス(後)



「はい?」

ドアに依って声をかけると、よく知った声が、珍しく気弱に響いてきた。

「あ、悟浄いるの?開けてくれる?」

「蓮実?」

振り向いて、三蔵が頷いたのを確かめ、ドアを開けた悟浄の前で、項垂れて立つ人影は沈黙っていた。

三蔵も起ってきて、怪訝そうに悟浄と顔を見合わせた。


「…天ちゃん?」

「あ、あのね」

天蓬の背中から、ひょこりと蓮実が顔を覗かせる。

「あ、三蔵さんこんにちは、あの、あっちのコンビニで」

「…開けっ放しにすんなよ、暑いから。上がって話してくれ」

「でもその、」

「すいません…」

反対側から、比沙子も顔を出した。

「あんたも。そんなとこでたまってどうすんだ」

天蓬は、蓮実に背中を押されて、もそもそと靴を脱いだ。

「お前らもビール呑む?」

「あのう、その、」

「あ、チャコは三蔵さんに会ったことないんだ!悟浄とあたしの友達のチャコです。よろしく。でね、」


蓮実は比沙子と家で呑もうということになり、氷とつまみを買いにコンビニに出た。

すると、白衣のままの天蓬が、夢遊病のような顔でフラフラ歩いて来た。

「あたしが声かけても、全然、耳に入ってないみたいで。

搬入のトラックにまともに突っ込みそうになったから、腕捕まえて、

三蔵さんち行くの?って訊いたら頷いたから、ここまで引っ張って来たの。

いきなりごめんね三蔵さん、じゃ、あたしらこれで…」


立ちかけるのを手で抑えて、三蔵は、テーブルに髪を垂らしてまだ一言も発しない天蓬に顔を向けた。

「捲簾、あんたがここ居るって知ってるのか?」

微かに、首が振られた。

「連絡していいのか?」

動かない。


「…あいつが、来たんです」

掠れた声は、エアコンの唸りの中に解け崩れそうだった。

「あいつ?」

「…弟、です」


唐突に、髪を払って、天蓬は顔を上げた。

見慣れた、呑気な笑みは、拭ったように無い。

綺麗な目鼻だちに、黝い疲れが滲んで、一種凄惨な顔になっていた。


「昨日から泊りで実験してて、やっと目処ついたんで帰ろうと思ったら、携帯にメール入ってて」


「件名:弟が来てる

本文:今朝、弟さん来たんで上がって待ってもらってる。

夜、オムライス作ってくれるってさ。泊って貰うけど、早く帰れよ 捲簾」


「弟さん…と、喧嘩でもしてんの?」

悟浄が口を挟んだ。

「あいつと喧嘩したこと、無いです。

あいつはいつも…ニコニコしてて…誰とも喧嘩なんかしない…でも、…取ってしまうんです。

今までは僕も…そりゃ…いい気持じゃなかったけど…」

「とるって、何を?」

「僕の…相手」

「恋人?」

「みたいな」

「捲兄が取られるって心配してんの?だったら」

「そうなんです。二人にしといちゃダメなんです。

判ってるけど、会社から出られなくて。

でも試薬間違えて苗箱一つ枯らしたところでリミット超えてるって皆に押し出されちゃって…

電車、乗ったけど、家の駅が近づいてくとどんどん怖くなって、

心臓が、せりあがってくるみたいで、

気がついたらここで降りてたんです。

蓮実ちゃんに三蔵のうちに行くんですかって言われて、

ああ、ここ三蔵のうちがあったんだっけ、って」


段々声が細っていって、また頭が垂れる。

三蔵が、目で(どうしたらいいんだ?)と問いかけ、

悟浄は、眉間を思い切り寄せて(わからねえ)と示す。


「天ちゃん、取られたくないんでしょ?!」

蓮実が、叩きつけるような声を出し、凍りかけた空気を粉砕した。

「捲兄って人、なくしたくないんでしょ?帰らなきゃ!かっこつけてる場合じゃないよ!」

がくがくと揺す振られるままの天蓬の瞳の底に、光が点る。

そして苦しげな色はなお、濃くなった。

「…どうしたら、いいんですか?僕、無くしたく無いもの持ったことがないんです」

「それまで、弟さんに、取られっぱなしで平気だったの?」

「…あいつは、僕と同じ顔してて、でもずっと、マメで。

料理でも何でもうまくて、色んなところ一緒に行ったり相手の趣味に付き合ったり…

僕を好きだって言ってくれる人もいつも、

僕が連絡も忘れたり、約束忘れたり、ズボラなのに疲れてたから、

そっちがよくなっちゃうんです。

仕方ないって思ってた…。いいやって。

でも、捲簾、取られたら」

また、電池が切れたように、かくんと、天蓬の声が途切れた。

「生きてらんねえなんて、言うなよ」

「…いいたいけど、絵空事なのは、頭ではわかってます」

一転してぼそぼそと、声は表情を失う。

「多分仕事して何か食べて寝て起きて、止める人も居ないから徹夜もやり放題で

なんぼか早く死ぬだけで、そこそこジジイになるまで生きてくんです。

段々捲簾のことも忘れるかもしれない。

僕が居なくても、僕が居るよりも、幸せかもしれない捲簾のこと、

考えるだけで心臓、糸でくびられるみたいなこんな気持ちも

いつかは薄れてくのかもしれない。

隣で笑ってるのが僕じゃなくてあいつなのが許せないなんて、

おかしいですよね?

人を憎むってこういう感じなのかな。よりによってそれが自分の弟なんてね。

あいつも…獲るまでが面白いのか、長続きしないらしいけど、

捲簾だったら、本気で欲しがるかもしれ」

「おかしくなんか、ないです」

比沙子は天蓬に額をくっつけんばかりに乗り出して、呟いた。

「ただ幸せになってくれればいい、なんてぬるいこと言えるのは本気じゃないか、

いい人の自分に酔ってるだけ。

自分以外の誰かと幸せな姿見る位なら死んでくれた方がマシ」

「でも、何、もう終わっちゃったみたいな悲観に浸ってるの?」

「怖いんです。帰って、あいつが捲簾の肩越しに、

物凄い意地悪な顔で微笑うのに直面したら、

…って思うだけで、息が苦しくて、頭がハレーション起こしたみたいに、真っ白で。

いつも、僕に見せ付けるのがあいつの癖だから」

「でも!−まだ、わからないんでしょ?行かなきゃ。

こうして怖がってる間に、取り返しがついたものが取り返しつかなくなるのだけは、避けなきゃ」

比沙子が、天蓬の腕を引っ張って起たせた。

比沙子がこんな大きな声を出せることも、

初対面の人間にこんなことを言えるのも、

知らなかった、と悟浄は思った。

「ちょっ、チャコ、天ちゃんの家知らないでしょあんた」

「紗衣知らないの?」

「知らないよぉ」

「悟浄?…三蔵さん、来てください」

比沙子はがっちりと三蔵の目を睨んでいる。

三蔵はため息をついて、悟浄を見、蓮実に目を移した。

「あんた、もう呑んでんのか?」

「え?ううんまだ」

「じゃ、運転してくれ。あんたらの社用車だ。向かいに停めてある」



申し訳ありませんがもう少しチキの回が続きます。

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