023 パステルエナメル
「何だよ、好き、って」
「好きの意味はそんな、多くないよ。
あたしが悟浄のこと、好きみたいに好きなのと、慈燕みたいに、好きなのと」
蓮実はジャングルジムのてっぺんに腰掛け、
悟浄を見下ろして微笑った。
「優しく出来る、変わらない、好きと、
いくらでも欲しくて、苦しくて、でもやめられない、好きと」
「そんなに簡単に区別つくんなら悩まねぇよ」
「そうだね、それにあたしの言ってるの、後の方は、片思い限定だし」
「お前ならいいけど、さ、俺の状態にそういうカユイ言葉やめてくんない?」
「了解。もう、この話、しないよ、あたしからは」
言いながら、蓮実は危なっかしく、ペンキの剥げた鉄枠の上に立った。
「風が気持ちいーい」
「こら、酔っ払い、怪我すんぞ」
「しないよう、この位からなら飛び降りたって平気だよう」
「シャレになんねえぞ、降りろって」
動いて余計に酔いが回ったらしく、
地面に足がついた途端、よろけた身体を抱きとめる。
「あの位で酔ってちゃしょうがねえなあ」
「最近ちょっと寝らんなかったからかも…ごめん」
おとなしく腕に納まっている蓮実も、悟浄自身も、
今は、兄弟のように触れている温もりが、
すぐに振り切れてしまうグレーの線ぎりぎりにあるのはわかっていた。
けれど、一度知ってしまうと、空の腕は、心より早く、充たされたがることも。
「…ダメだろ」
「うん…あ!」
激しい震動を始めたバッグから携帯を取り出した蓮実の顔色が変わった。
* * * * *
鉄線細工のランプが、一つ一つのブースの、高く刳り貫いた天井から下がり、
エアコンの風に微かに揺れていた。
天井から床までの象牙色に照り映える仄かな灯りは、夏の宵の金星のようだ。
ウェイターの白麻の制服は、着萎えた皺が寄っていたが、
ピンと伸びた背筋、リズミカルな足取りが、だらしなくは見せなかった。
飲み物のメニューを開く三蔵の手もとが、手品のように指先に光ったぺンライトで照らされる。
「さっぱりしたもの、ビール以外で」
「では、サイゴン・ハイボールをお勧めします。ルア・モイ、
ベトナムのお米の蒸留酒をソーダで割ってレモンで味を整えたもので」
「それでいい」
「食い物、順番はいいからどんどん持って来て」
捲簾は取り替えられたばかりのナッツとペパーミントの皿を悟空の手が届かないところに滑らせた。
「捲兄ちゃん、意地悪すんなよ」
「料理、入らなくなるだろうが」
「昼、食ってないもん」
「イツキちゃんにサンドイッチ貰ってたろ」
「うまかったけど、あの位じゃおやつにもなんない」
三蔵のトールグラスと一緒に、湯気の立つ海老の蒸し物と、揚げた川蟹が運ばれて来た。
「この海老は手で召し上がるのをお勧めします。こちらのボールで指をお洗い下さい」
殻を剥くと反り返る海老の身は新鮮な甘みを残して喉を滑り落ちていく。
蘭を一輪ずつ浮かべたフィンガーボウルに指を浸すと、強い香りが残った。
しかし、料理とぶつかるものではなく、むしろ爽やかな風味を増すようだ。
器が鈍い金色のために見た目はわからなかったが、入っているのは水ではないらしい。
「白毫烏龍茶、だな」
持ち上げて嗅いでみた捲簾が呟く。
「すげー、鑑定士みてえ」
「流行りは押さえないといけないわけよ、お兄さんの商売は。
この店来たかったのも、ちょっとは勉強にってのもある。
コロニアル・スタイルの内装はよくあるけど、
ここまで本格ってのは珍しいし、制服も靴までちゃんと合わせてある。
従業員がサービス内容や店のコンセプト理解して動いてるってのも、
今日び東京じゃ珍しいよな。マニュアルじゃねえ」
最後は溜息のようになる。
「サービス業だけじゃねえぜ、すぐ若いモンがマニュアルほしがるのは」
「こんな小洒落た処でなんだけど、中間管理職の苦労ってのは変わんねえってことかねえ」
最後の海老を取ろうとした悟空が、申し訳なげに三蔵を見上げた。
「今日、もありがとう、ございました」
**興業で無事、保守契約に判が押され、辞去しようとした悟空を、散々悩ませた専務が呼び止めた。
「あんたさ、大した根性だわ。アタシのこと、何度もぶん殴りたかったろうにきっちり仕事してさ」
肩を強ばらせた悟空との間に、無表情に割って入った三蔵に、専務は笑顔を向けた。
「保守にもこの子が来るように、指名しても…ダメそうね、主任さんのその顔じゃ」
「こいつの堪忍袋は俺の50倍は丈夫ですが、限度ってものがあります」
「残念。最後の方は、可愛くって苛めたかったんだけど。
アタシのこと堪忍する気になったら来てよね。あんた、いい男になるわよ、じゃあね」
悟空はそのまま捲簾の店に行って、カットして貰った。
「可愛いから苛めたいって、わけわかんねぇ…」
「ガキがやるだろ、好きな子の気ィ惹きたいから苛めるって奴」
『嗜虐癖』という言葉を、捲簾は飲み込んだ。
悟空はまだ知らなくていいことだという気がしたからだ。
研修の後の片づけを悟空が手伝っている間に、
捲簾が三蔵と落ち合う約束を決めてこの店に来た。
「もう一人、合流するかも知れねえけど、いいか?
お前とチビ助には、一度会わせときたい奴なんだ」
「俺みたいな無愛想なのが居てもいいってんなら」
「サンキュ、ま、そいつも仕事メチャクチャな時間だから、来られるかわかんねえんだけど」
三蔵の人見知りを誰より熟知する捲簾が敢えて言うなら、断りようも無かった。
とはいえ、店にはまだ二人しか居ないのが目に入ると、三蔵はほっとした。
いくらかアルコールが入ってからの方が、初対面の人間にも楽に向き合える。
檳椰の実のサラダや北京ダックが来ると、捲簾は一人分を別皿に取り分けた。
「何で海老とかはやんなかったの?」
「あれは冷めたら美味くないだろうが。こっちは冷たいから、お前に食い尽くされる前にとっとくの」
「で、誰なんだよ」
「…最近、一緒に住みだした。なんつうか、今、優先順位一番の奴なんだけど」
冷えたミュスカデを含んで、捲簾は言葉を濁す。
「…本人居ねえと、説明し辛いのよ」
「あ、あの人?」
悟空がいち早く、入口から案内されてくる人影を見つけた。
「遅くなってすみません」
一揖すると、艶やかな黒髪が、肩からこぼれた。
細い首が、幾らか泳いでいるようなYシャツは真っ白だが、
スーツのズボンは折り目が消えかかっていて、細いネクタイはよじれている。
黒いスリップオン、黒い半縁の四角い眼鏡に、実用一点張りのビジネスバッグと、
着用しているものは時代遅れのサラリーマン御用達ばかりなのに、
どういうわけか、全然、普通の勤め人には見えない。
長い髪や、綺麗な顔立ちのせいだけでなく、
勤め人には間違いなく塗られている日々の疲労...は、
はっきり、目の下の隈に現れているのに、
どこか焦点の合っていないような、浮世離れした表情のせいかもしれない。
「とにかく、座れよ。こいつが、天蓬。こっちが三蔵、と、悟空」
「どうも初めまして。あ、僕はお茶下さい、冷たいの。何でもいいです」
「呑まねえのか?」
「僕、金曜から4時間しか寝てないから、ここで爆睡しちゃいますよ。
あ、僕、研究員やってるんです。名刺…あ、上着替えたとき置いて来ちゃった、すいません、
○○園芸のバイオ部門で、新しい色の花作ったりなんだりしてます。
三蔵さん、たちのお仕事のこと、だけじゃなくてとにかく色々捲簾から聞いてます。
お会いできて嬉しいです」
不意にくっきりと浮かんだ笑顔は、子供っぽく、人なつこかった。
朝から何も食べていない、といって、
不器用に包んだ北京ダックにかぶりついた途端、味噌をシャツにこぼして、
捲簾に小言を言われながら、おしぼりで拭かれる。
「あー、折角売店で今朝買ったのに」
「他人ごとみたいに言ってねえで、ちったぁ気をつけろよ、味噌の染みなんか抜けねえぞ」
「醤油と一緒で発酵した菌組織なわけですから、理論上は塩化…」
「こないだも妙な薬品持って帰って来てシャツに大穴開けたろうが、懲りろ!」
「あはは、そうでしたね」
「でも、風呂入ってシャツ替えて来た努力は認めてやるわ」
「そうですよ、あなたの身内の方に初めてお会いするんですもん、
僕だって一世一代の努力はします」
捲簾は、照れの下から押し込めようのない熱を滲ませて、微笑った。
「こいつほんとにだらしねえから、そんな当たり前のことでも大奮闘なんだ。
同じマンションで別の階、住んでたんだけど、
俺が出勤するころ帰って来たり、帰る頃ゴミ出したりしてて妙に鉢合わせるうちにさ…」
いつもぼさぼさのままか、不精に括られた天蓬の髪を見かねて、
捲簾が自分の部屋に引っ張っていって、シャンプー、トリートメント、カットをしてやったのだという。
髪質は思った以上に良く、手入れをしたらヘアモデルも出来そうだった。
「一度カットしちまうと、気になるもんで」
サロン用のシャンプーを頒けてやったり、
食生活を聞くと悲惨だったので料理を食べさせてやったり、
ゴミなんとかを探す番組が取材にきそうな部屋を片付けたりするうちに、
「いっそ、一緒に住んじまう方が手っ取り早い、ってことになってな」
面倒見がよくて寂しがりの癖に、
特定の誰かに、自分の優しさを注ぎ込むことに、ひどく臆病だった捲簾が、
こんなに手放しに世話を焼ける相手が出来たのが、三蔵には嬉しかった。
それが男だったり、全く畑違いの人間だったことはどうでもよかった。
天蓬は、その熱さや豊かさに臆せずに、捲簾の気持ちを喜んでいたからだ。
「捲簾のこと、よろしくお願いします」
三蔵は、丁寧に頭を下げた。
「僕ばっかりお世話されてるのに、お恥ずかしいですけど」
天蓬も、素直に礼をし−
張った肘でお焦げ料理の皿をテーブルから落っことした。
024 ガムテープ
022 MDへ
Hybrid Theory Top