021 はさみ


目覚ましだと、思った。

引っ掴んだ時計は沈黙している。

「携帯だろ…」

捲簾が、もぞもぞと布団から脱け出すと、浴室に入っていった。

「孫です。朝早くにすいません。今日、有給取らせて頂きたいんですが」

「…何、しゃちほこばってんだ」

「今月、もう3日休日出てますし。一昨年からの有給の繰越もそろそろ…」

半ば眠っていた三蔵の頭に、光が行き渡ってくる。

「今日が**興業の締め日だって忘れたんじゃねえよな」

ぐっと詰まった気配が伝わってくる。

「三蔵、××信金の予定、無くなったんだろ」

「で、俺に行けってか?上司はどっちだよ、ああ?今どこだ」

「駅前の、ミスド…」

「南口の方だな?15分で来い」

返事を聞かずに切った。まだ鳴っていない目覚ましを解除する。

頭髪を拭きながら捲簾が出てきて、勝手に箪笥を開けて白いTシャツを被った。

「お先。何、会社の奴?俺、外そうか?」

「いや、悟空だ」

「ああ、チビ助か」

100円ライターはガチガチ鳴るばかりで点こうとしない。

「落ち着けって」

自分のメンソールを咥えた捲簾が火を差し出す。

捲簾は点けた煙草を、捨てるまで指で持たない。

『やっぱ、他人さまの顔近く、触る商売じゃん?それに、俺って咥え煙草、絵になるし』

中味は違っても、自分が好きで選んだ仕事への捲簾の誠実さはよくわかった.


「あの人」が自分達に残した教えのひとつ。

自分と、自分の選択への忠誠が、流転する世界で、自分を支えること。

悟空にも、同じものはあると信じている。

だから、今日逃げ出そうとする理由がわからず、三蔵を苛立たせた。


*     *     *     *     *


俯いたまま入ってきた悟空は、BDシャツにネクタイを締め、踵を擦って脱いだ靴もスニーカーでなくローファーだった。

始めから、行かない気ではなかったらしい。

「今日行けば終わりじゃねえか。何で今日になって」

**興業の仕事は、名目上は三蔵がリーダーだったが、
最初の打ち合わせに行っただけで、実際の仕切りは始めから悟空にやらせていた。

内容は、エステティックサロンのスケジュールシステム構築で、
システム自体は、自動車教習所や英会話学校で使ったものを手直しすれば済む。

あっさり1ヶ月程度で終わる予定が、ついに3ヵ月に及んだのは、
ひとえにクライアントに振り回された結果だ。

請負開始時点で、こちらの言うことに頷いていても、実は把握していない客が、
わかってきた時点で色々言うのは予定の範囲だ。

だが、殆どワンマンらしいここの専務ときたら、
前日、下手をすると数時間前にくどい程確認したこともひっくり返し続けた。

店頭の予約をキーボードにするかタッチパネルにするか。

ホームページの会員ページへのアクセスに、IDを入れさせるか、パスワードだけにするか。

電話での予約に、回線確認コードを入れるか省略するか。

写真の差し替え、色調の変更、SSLのレベル…

一つ一つは瑣末なことでも、覆されるたびに、作業する人間には、
ずるずる崩れる砂山を登るような疲労が蓄積されていく

予定の締め日に、半分も構築が終わってない時点で、
さすがにこちらの部長が乗り込み、中止を申し入れた。

だが、こちらの勝手で伸びたんですから、と、かかった時間だけの割増をもちかけられ、
それまでの労力を無駄にするのも忍びずに、継続が決まったのだ。

毎日メールで入る報告書には、淡々とその日の作業が書いてあるだけだった。

一人でも、ギヴアップの声が出たら、今までの時間を棒に振ろうが、
止めさせていい、と部長も言っていたし、三蔵も同意していた。

悟空は弱音を吐かなかった。

チーム全員が、黙々と頑張った。

そして今日、システムを始動させて、保守契約に日付を入れて、終わる筈なのだ。

キレるなら、とっくにキレていてよかったのに、今日になって。



湯気の立つ深皿が、それぞれの前に置かれる。

「食いながらでも、話せるだろ」

「あ、…」

初めて、悟空が顔を上げた。

「でも、捲兄ちゃんの分」

「俺のは今焼いてっから。それに俺今日休みだからお前ら先食え」

「悪いな」

甘く香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がっているのに、
気付かなかったほど、三蔵も、肩に力が入っていた。

柔かく煮えた卵をすくって飲み込んだ悟空が、くすんと鼻をすすった。

そして忙しなく、スプーンを口に運び続ける。

「おら」

捲簾がティッシュの箱を押しやると、掴み取って鼻をかみ、
ぐしゃぐしゃ顔を拭って、それでも食べ続ける。

「熱いからな、はなみず出んだよな」

「…うん、」

*     *     *     *     *

からんと、スプーンを置いて、コップの水を飲み干すと、悟空は大きく息をついた。

「あの専務、三蔵に来て欲しかったんだ」

「は?初回のミーティングでしか会ってねえのに」

「そんなの関係ないんだよ…そんで、現場は俺が行ってたから、
俺に無茶言ってギヴアップさせれば三蔵が来るって思って
あんなに無茶言ってたんだ。
頭っから三蔵寄越せって言っても理由がなかったら来ないから。

俺、頑張って仕事してれば、納得してもらえるだろうって、
それに初めて単独リーダー任せてもらえたんだし、ギヴしたくなかった…

そしたら、却って憎たらしいって思われた、みたいで、
後半は殆ど八つ当たり、みたいな気だったかもしんない。

俺一人じゃなかったのに。
俺が意地張んないで、いい加減なとこでギヴしてたら、
チーム皆もあんなにしんどくならなくて、
やっぱ俺リーダーじゃない方がよかったかもって。

皆怒らないで、頑張ってくれたから余計申し訳なくて。

まさかとは思うけど、今日またなんか言い出されて、
ひっくり返されたら、って思うとたまんなくなった。

三蔵が行ってくれて、あの人がもう文句言わなくて、締めになったら皆が嬉しいんだ、

俺、行かない方がいいと思う」


「言いたいことはわかった」

三蔵は、煙草をもみ消した。

「だけど、行け」

縁が赤くなった悟空の眼が、苦しそうに細くなる。

「あれはお前の仕事だ。

あっちがいくら無茶言っても、お前、ずっと筋通して来たじゃねえか。

俺も、他の奴も知ってる、だからチームの奴らもついてきてた、

もし今日、全部白紙に戻すようなはめになったって、

お前はそこに立ち会ってるべきなんだ。リーダーなんだから。

わかってんだろ?」

「わかっ…た」

「俺も行くから」

また、垂れていた頭が、ぱっと上がる。

「…俺の悪いとこばっか、真似すんじゃねえよ。

上司ってのは、程ほどには頼っていいんだ、

押し付けるか自分で全部抱え込むか、しかねえんなら、会社に居る意味ねえだろうが」

「…はい、主任」

「昼過ぎには片付くだろ。そっからは半休でも有給でも好きにしろ」


「じゃあ、店来な、チビ助。随分、鋏入れ甲斐のある頭になってんぞ」

皿を洗っていた捲簾が水をとめ、悟空の前髪をつまんだ。

「休みじゃないの?」

「昼からインターンの研修。

カットモデルが来るから、一応詰めてんのよ。

ヒヨコどもがうっかりばっさりやっちまったときの保険。

ここでやってもいいけど時間ねえだろ」

「そうだな。後から出るか?」

「いや、一緒に」


*     *     *     *     *


「なあ、その専務っての、三蔵に…コレなわけ?」

小指を立ててみせた捲簾に、悟空は少し赤くなり、頷いた。

「うぜぇ…」

「それって、そいつがうぜえわけ?それとも、男だから?」

三蔵は、しばし考えてみた。

「…俺のこと、ロクに知りもしねえのに、わけわかんねえってのと、
仕事にかこつけて、引き寄せようとする、みてえなやり口は嫌いだ」

「そっか」

捲簾はなぜか嬉しそうに笑って、三蔵の髪をわしゃわしゃかきまわした。

「仕事前にやめろって!」

「俺様のカットは手櫛ですぐ格好つくんだよ」

「あの人」のあたたかさとは対照的に、いつも冷んやりとした捲簾の指も心地良い。

「やっぱ、三蔵は俺の不動のN.o.2だぜ」

「昨日もなんかそんなこと言いかけて先に寝ちまって、何なんだよ」

「いや、No1ってのは、結構入れ替わり激しいもんだろ。

どうしてもそのとき優先しちまう相手ってのは、
結局その時しか一緒にいないかも、とか焦っちまうような関係つうか。

ぶっちゃけ恋愛モードの相手がどうしてもそうなるじゃん。

でもどんなにNo.1が入れ替わってもNo.2ってのは安定してて、

ある意味No.1と別にすげぇ大事っつーか」

「朝っぱらから濃い話止せ」

「わーったよ相変わらず照れ屋だな」


*     *     *     *     *


見間違うはずはなかった。

でも、あんな、無防備な顔は知らない。

三蔵より、さらに背の高い、黒い短髪の男が何か言い、
三蔵が、眉間に皺を寄せていても、
どこか気を許しきったような膨れっつらで、男の肩を小突く。

後ろで悟空が笑いながら、茶々を入れて、
二人を追い抜いて改札に駆け込み、二人もすぐ後に続いた。


それは勝手な感情なのはわかっている。

自分が知らない三蔵の顔はいくらでもあるのだ。

けれど今、自分はひどく嫌な顔をしているに違いない。

悟浄は出来るだけ早足で、仕事に向かった。





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