031:ベンディングマシーン(自動販売機)後
(天蓬さん、は、何度来てんのかな)
悟浄は夜目にも角がくっきりと見える白っぽい壁を見上げた。
コンクリの階段を足音を立てずに上がる三蔵の後ろについていく天蓬も、
やはり足音を立てない。
(…遅く帰るの、慣れてんだ)
三蔵は、鍵を出す風もなく、角部屋の前に立った。
ドアはさっと開き、中の明るさがあふれ出る。
「…!」
身を翻して、走り出した天蓬は悟浄と衝突した。
三蔵の眼を捉えた悟浄は、天蓬の肩を押さえて押し留める。
「ちょっ…離し」
ベンチウォーマーの柔らかい殻の中で、もがく腕を、
中から出て来た背の高い男が捉えた途端、
細い体はこわばって、小さく震えだした。
「やめて、下さい…今まだ取り返しのつかないこと言っちゃうかもしれない」
「別れてえのか?」
押さえていた肩がびりっと跳ねる。
悟浄はそっと手を下ろした。
「いやです…!」
「だったら」
長い腕が、静かに、天蓬の身体を胸に抱きとった。
「取り返しのつかねえことかどうか、話そう。
腹芸で済ますほど、俺たち、まだ長くねえだろ?」
天蓬が、微かに頷く。
「長くしてえから、俺は」
天蓬の咽喉が、ごくりと動いて、振り向いた顔を、男の肩に埋めた。
「中で話せよ」
三蔵が、天蓬が落としたツッカケの片方を拾って、
玄関に放り込んだ。
「いや、俺ら帰るから」
「俺はどうせ悟浄んちに泊る約束だったんだ。
飲みの後悟浄が来て一緒に行くってことになってた。
今着替え出したら、出るから、
明日鍵かけて出てってくれりゃいい」
三蔵は、さっさと部屋に入った。
男は、訝しげに悟浄を見た。
(やっぱり、この間の…捲簾て兄ちゃんか。マジで全身、隙ねぇな)
「俺、今日、てか昨日誕生日で、次の日休みだから、
三蔵に来てくれってねだって…なんつうか、二次会?やろっかって話で」
「そうですか…こんな時間で廊下で話すのもなんですから、どうぞ」
天蓬を抱えるように上がった捲簾は、天蓬のコートを脱がせて掛けて座らせ、
いい香りを立てていたメーカーからコーヒーを注いで、天蓬と悟浄の前に置いた。
いかにも勝手知った風だ。
高価そうなコーヒーメーカーは殆どもののないカウンターにでんと目立っている。
「俺が引越し祝いにやったんだけど…俺が来たときしか出さねえから。
三蔵だけだと、見たことないでしょう?」
「え、あ、はい」
「あ、挨拶が後になっちまって。三蔵の、まあ兄貴みたいなもんで、捲簾です。
XXで美容師やってます」
「悟浄です、写真やってます、三蔵の、その」
「ねえ、悟浄さんて三蔵の彼氏なんですか?」
天蓬が唐突に、カップから顔を上げて訊いた。
「…あのなあ!人の詮索する余裕あるか今のお前は!」
「だって三蔵ってすごいんで…んんー!」
ナイロンのスーツキャリーと、いつもの鞄を持って出て来た三蔵は、
天蓬の口を押さえている捲簾をちらりと見て、
「夜中だからな、近所迷惑にならねぇようにやってくれ」
と言い捨て、すたすた出て行った。
悟浄は慌ててコーヒーを飲み干し、二人に頭を下げて後を追う。
「ちょ、ちょい待ってって三蔵」
悟浄はエントランスのドアにもたれて、ブーツのジッパーを上げた。
ガコンと音がする。
三蔵は道路を挟んだ自販から、缶コーヒーを取り出していた。
「捲簾、さんのコーヒー飲んでけばよかったのに。旨かったぜ」
「早く出たかったんだよ…嘘つき合わせて悪かったな」
「いーってことよ、方便、ってやつだろそれこそ」
「今から戻って、多分天蓬がグシャグシャにしたまんまのとこで話すよかいいんじゃねぇかと思って。
あいつすげぇ散らかすらしいんだよ」
「それだと普通、捲簾さんのがキレて出るんじゃねぇの?」
「色々あるらしいんだけどな。住んでから忙しくてコミュニケーション不足ってのは言ってたから」
「おかげで三蔵泊まりに来てくれっし、俺としちゃ得したけど」
「いや、さっきのはそれこそ方便だ、会社の仮眠室行くから」
「そりゃないっしょ。誕生日の夜だってのに、俺のこと、一人ぼっちにすんの?」
のしかかるように、白い顔を覗き込む。
三蔵はふいと眼を逸らし、飲み干した缶をゴミ箱に押し込んだ。
32 鍵穴
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