冷たい指が、頬に触れた。気持ちよくてまた眠りに引き込まれかけた。
「−ひぁ!」
もっと冷たいものが首から背中を滑っていく。
「汗かいたろ」
シーツを剥がされ、冷たいタオルが背中から腰へ移動していく。
いつのまにか、部屋はオレンジの光に染まっていた。
前に回ってきた手を押えた。
「…感じてきちゃった?」
低く微笑っているような声は、憎らしい。
「意地悪」
「こーんなに優しいのに?」
抱き込まれた胸はさらりとして、新しくつけたコロンが匂った。
「あの、」
…彼の名を、知らなかった。
大きい手が頬を挟んで、掬い上げる。
「俺の名前、知らないでしょ」
頷くしかない。
「ダメじゃん。名前知らない男とこんなコトしちゃ」
「ほんと」
「悟浄だよ」
名前を含ませるように、キス。
「電気、どこから来てるの?」
「下の階の空き部屋。さすがにエアコンだの冷蔵庫入れたらメーターでバレッけど、こんな電気位だと平気」
「…?」
「容量多いモン使ってっと、メーターの回転が速いのよ」
何で、そんなこと知ってるのかなあ。この人、電気屋さん?
「−俺さ、ちっこい時から、何度もこういうの作ってんの、今は別に無くてもいいんだけど」
微かに、苦味が残る口調。
「このプレハブ、隣の駐車場に不法投棄してたんだ。バラバラで。
パーツをロープで縛って一個ずつ引っ張り上げた」
「ひとりで?」
「ん、ダチが下で見て右とか左とかナビしてくれた。ダチってここの管理人のジジイなんだけど。
ここんとこ、ここに来る階段がしんどいってえの。
怠けモンで昼寝ばっかしてんだけど、
そこの給水タンクにヘンなモン入ってないかチェックして、薬入れるのだけはサボるとヤバイんだわ。
抜き打ち検査されたらバレバレで首になっから。
で、俺が代わりにやってやるから、コレ、見逃してくれてんの」
ほんとに、ここに住んでるわけじゃないだろう。住めるわけない。服も何もないし。
こういう秘密のポケットみたいな部屋を持つのが楽しいんだ、きっと。
そんなポケット、いくつ持ってるんだろう。
「…帰るね」
身を起こした拍子に、おなかがきゅうと鳴った。
「かっわいい音。なんか、食いにいこ」
ワリカンでパスタを食べ、あっさりと別れた。
そう広くない街で、それまで一度も会わなかったのに、
一度会ってしまうと、同じ人に何度でも出くわす、というのはよくある。
コインランドリーの中から手を振るのに振り返るといる。
コンビニの入口で鉢合わせる。
というより、今まであの紅い色が目に入らなかったのが不思議。
いつここに来たのか、何をしているとか、そういう話は出なかった。
目が合えば差し伸べる手につかまり、
錆び落ちそうな階段をこわごわ上がり、
あの部屋で、抱き合う。
その夏には他のやり方はなかった。
アイスボックスからフルーツトマトのスープに浮かべたじゃがいものニョッキと、
キャビアを絡めた冷製カッペリーニとマテウス=ロゼが魔法のように現れた日もあった。
「、どっち食う?」
「両方!」
「だーめ、半分こしよ」
この部屋は、夏は暑いだけでも、冬はとても居られない。
ここ以外で居ることが考えられない私たちは、
だから、この冬までは続かないよね、
と、漠然と思っていた。
でもその夏はいつまでもだらだらと暑くて、
そういうことをつきつめてみるとか、しんどいことは出来なかった。
…というか、したくなかった。
次回リクエストシーン入りまーす。すれちがいざまに触れる手。
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