You on my mind
ビルのエントランスで携帯をONにした途端、
イルミネーションが光って震える。
“悟空”
“gojo_s_@…“
“初音”
殆ど、毎日のことなのに、呼吸が詰まる。
まず、他のメールを選択する。
「合コンのメンツ足んないんだー、今晩空いてない?初音」 消去。
「、豆乳鍋とアンコウ鍋ってどっち美味いかな?
今晩ゼミでどっちか行くんだけど教えてくんねぇ?悟空」
「です。悟空あんまり飲まないでしょ?
豆乳鍋のがきっと食べ甲斐があるよ? ではまた」返信。
深く息を吸って、残りの一件を選択。
「今夜、あのバーで待ってる。どうしても来られないときだけ、電話入れて?悟浄」
−消去。
あなたの言葉は、一瞥で、瞼に灼きついてしまう。
或いは、心の皮膚に刻み込むタトゥー。
バーには紅い色が無かった。
いつかあると怖れていたことが起ってしまえば、かえって胸は軽くなる。
「いらっしゃいませ。
悟浄さん、会社から緊急呼び出しがかかられまして。
できたらここで待っていて下さいとご伝言、承りました」
柔らかく形作られかけていた微笑が、こわばった。
伝えきれない思いは濃くなり過ぎて、殆ど憎しみのように、胸を焦がしてきている。
珍しく、他の客の姿もない。
淡紅色のフルートグラスが置かれた。
「どうぞ」
甘い桃の香りに、少し気持ちが和む。
「独りで飲むのも寂しいな。店長さん、一杯お付き合い願えません?」
「では、お言葉に甘えて、デュボネを頂きます」
悟浄が、自分の隠れ家だ、と連れてきてくれたバーだから。
別れたら、このひととも逢えないだろう…。
は、ぴんと背筋を伸ばしてシェイカーを振るこの女性が大好きだった。
この苦しさから逃れない理由は、いくらでも思いつく、
自分が何だか、可笑しかった。
悟浄がいなくなれば、弾け散った心ごと、苦しみも消える。
紅に灼きつくされた灰のひと色の世界。
グラス越しに、深い色の瞳が出会う。
「お口に合いました?」
「ええ、とても美味しい」
「悟浄さんのオーダーですよ。さんが見えたらベリーニをお出しして、と」
シャンパンと白い桃のリキュールを、真紅のグレナデンで仄かに染めたカクテルに、
悟浄が込めた筈の言葉を伝えるのは野暮だろう、と彼女はただ、微笑んだ。
(俺の色を、少しでも、彼女の中に。)
とりとめない話を、ぽつりぽつりと交わしながら、夜は更けていく。
時計が夜半を告げても、終に、他の客は現れなかったー悟浄も。
「…実は、12時までに来られなければ、
これをお渡しして欲しいと、お預かりしたんですが」
銀色のリボンがかかった、小さな白い函。
ミッドナイト・ブルーのビロードの上には、
ダイヤのピアスが二粒、きらめいていた。
「これを着けたらいつも、俺を思い出して。」
そういえば、悟浄の手跡は初めて見た。
小さな石が、放物線を描いて、の内の水面に同心円を描く。
一杯な心が、縁から、言葉をこぼしてしまう。
「素敵ですね。きっとお似合いですよ」
「…悟浄を思い出すことなんて、ないわ」
「−え?」
しなやかな指が、グラスの下に札を滑り込ませる。
カウンターに、開いたままの函もカードも置いたまま、はスツールを降りた。
「だって、忘れたことないもの。一瞬も」
ドアが静かに閉まり、ヒールの音が階段を上っていく。
店長は肩越しに、囁いた。
「さ、これ持って、早く行きなさい」
カウンターの奥で、細く開いていたオフィスのドアから出てきた人影が、
店長の手から函をひったくって、飛び出して行く。
開けっ放しのドアから、「本日貸切」の札がからりと落ちた。
「今夜の貸切のお代は、ご祝儀にしておきましょ」
モエ・エ・シャンドンを注ぎ、店長は恋人たちに乾杯した。
店長のモデルさんに捧げたホワイトデイドリでした。いろは紅葉の太夫の歌にちなんで。
バレンタインドリと対になっています。