Stay(Faraway, so close!)





いつもと違う朝。
静けさが、肌に突き刺さるようだ。
ゆっくりと、開いた目に映ったのは、
色の違う眸。
「漸く、お目覚めか」
寝台の端に腰掛けていた男は、
身を屈めると私にくちづけた。
「俺は焔という。お前は?」
「…
「良い名だ」
「ありがとう。…召使を呼んで下さらない?
朝のお茶が欲しいの」
焔という男が入り口に向かって数語、命令を発した。

やがて、帳の向こうに見慣れない人影がさす。
焔は盆を受け取って、傍の小卓に置いた。
半身を起こし、今日は枕の代りに男の腕に凭れて喫む
ラプサン・スーチョンの香りに、
漸く、全身が覚醒してくる。
「男の召使はこの部屋には入れないのだけれど」
「生憎だが、城内のお前の召使は皆、殺した。俺の供は皆男だ」

ああ、だから静かだったのか…
「困るわ。着替えができなくてよ」
「案ずるな。今日は俺が手伝ってやる」
茶碗を取り上げると、焔は寝衣の胸のリボンを解きだした。
「やけに複雑なものを着けて眠るのだな、
「私の征服はこのお城より難しいの」
「では兵法を変えるとしよう」
肩のレースに双手がかかり、共色で刺繍を施した練絹が一気に引きちぎられる。
脇腹に押し付けられる冷たい鉄の感触に、肌が粟立った。
「…痛いか?…お前の肌は柔らかい…傷はつけぬようにする」
ゆっくりと胸のふくらみを包み込む指は優しく、
耳朶を嬲る唇は熱い。
自分の中の傷を爛らせている匂いは嫌いではなかった。
「その枷はお除りになれないの?」
「…ああ」

上掛けは落とされ、
肩は堅い胸に抱き込まれ、腰は強い腕が廻され、
脚はきつく絡め取られる。
布越しにも、この男の熱が肌に痕をつけそうだ。
直に触れる、指、唇、そしてどこよりも熱い…
「息を吐いてみろ…そうだ、俺に委ねておれば良い」
嫩い男の甘い汗が滴り落ちる。


複雑すぎる、と言って、焔は、
コルセットも、ガーターも、ホーザリーも着けさせてくれない。
素肌に直にドレスを羽織るか、一糸も纏わず寝台に籠るかしかできない。
そして彼は、三日三晩、私の傍を離れなかった。
四日目の朝、許していない筈のこの部屋の一番奥の扉から、
片目を隠した逞しい男が大股に歩み寄り、
寝台の帳を上げた。
「無粋だぞ、是音」
焔は抱きしめた私の上にシーツを引き上げて肌を隠した。
「帰還命令からもう3日過ぎるぞ?完了報告せんと…」
「…まだだ。お前と紫鴛で一度行って来い」
汗ばんだ髪を頬からかきのけて、唇が落ちてくる。
「ここがまだ降伏せんのでな」


「…駄目だ、ありゃ」
紫鴛はさほど驚いた風もなく肩をすくめた。
「適当に途中経過を報告して、戻ればいいでしょう」
「あの娘を連れて帰るとか言い出すんじゃねえか?」
「…三日経って音を上げないお相手っていうのも初めてですからねえ…」
「人間じゃあねえだろ?妖怪か?」
「…どうも、はっきりしません」
珍しく困惑した風の紫鴛に、是音の不安が膨れ上がった。
「最初に皆殺した、この城の者達ですが…
死体がいつのまにか、消えてるんですよ。
兵達が取り片付ける前に。
あれは幻だったんじゃないでしょうか。
あの部屋からは、確かに、焔以外の者の生気を感じますから、
あの女性には実体があるのですけれど」
「ああ、確かにな」

顔は、焔の胸に埋められていて、見えなかった。
だが、僅かに覗いた、項と肩の、
微かに汗に湿った皮膚の艶と、えもいわれぬ曲線だけでも、
是音の中の雄を騒がせるに十分なものがあった。
「とにかく、早く行って早く戻りましょう。
焔に危害を加える怖れは今のところ、なさそうですし」
促されるままに、僅かな兵を残して天界に向かう。
あのまま、あの娘の傍にいるよりは、離れたところに居たかった。


怠惰な微睡みに溺れていると、冷たい雫が降り注いだ。
「何…」
冷たくて柔らかなものが、頬を滑って行く。
「庭の白椿だ…お前の肌のような艶だったので折ってきた。露を含んで美しい」
私は笑って、花ごと焔の手を引き寄せ、頬に押し当てた。
「どちらが良い?」
「訊くまでもない」
重い鎖が体を這う感触にも慣れた。

胸肌に顔を埋めているので、くぐもった声。
「こうしていると、時を忘れる」

そっと、焔の指から握りつぶされた花を取りだし、
右の手を自分の左手と、
左の手を自分の右手と、結び合わせた。
ぎゅっと右手に力をこめる。
「これがあなたのお母さんの手」
左手にも力をこめる。
「こっちはあなたの恋人の手」
私の胸の間が、静かに濡れた。


翌朝は、よく晴れていた。
珍しく、焔は私にドレスを着るように言って、
手を曳いて庭に出た。
蔓薔薇を絡ませた、高い生垣から、むせ返るような香りがしてくる。
濃いいろのマレシャル・ニール。
「外に、出てみぬか」
焔は手にした剣で、生垣を切り裂くと、私を抱き上げて踏み出した。
ミルク色の靄が、彼の濃い色の髪も、冷たい鋼の光も柔らかくぼかす。
「…!」
そして、靄が吹き払われた場所は…庭の別の一角。
焔は私を下ろすと、目の前の垣を再び切り払い、出て行った。
程なく、背後から、歩いてくる音がする。
「…、どういうことだ?」
「ここは閉じられておりますのよ」

明るい光の中で見上げる彼は綺麗な男だった。
「…ここからは出られぬということか。
是音や紫鴛が帰ってこないのは、そのためか」
「ええ。貴方、あの方達を来たところにお帰しになりたいようでしたから、
帰して差し上げましたの。でも再びは来られませんわ」
ここは、私の夢で出来た世界だから。
同じ夢は二度と、見られないから。
「…俺もか。俺をお前が解き放てば、俺は戻れぬのか。
…俺は、お前を連れ出して、俺の建てる理想郷に、
連れて行きたかったのに」

なぜ、あなたは泣くのだろう。
皆いつかは解放を望む。
私は微睡みの中で、また新しい夢を見る。
果てることのない繰返し。

「…お前を他の男に逢わせはしない」
しなやかな刃が、喉に当てられた。
、お前は死ぬことはできるのか?」
「さあ、わかりませんわ。お試しになってみて」
私は、肌を刃に噛ませるように、身を進めた。
「−!」
焔は、剣を傍に投げ、息が詰まるほどきつく、私を抱きしめた。
「…俺は、ずっと…独りだった」
囁く声は、ひどく小さい。
「俺は人の肌が恋しい。お前を…失いたくない」
「あなたが望む限り、お傍に」
この夢は、覚めることがない…

Fin.