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カシャンと小さな扉が開く。トレイが乾いた音を立てて滑ってくる。
「今日は苺がありますよ。好きでしょう?」
トレイから皿やコップを取り出すと、壁の向こうでじっと見据える、翠の瞳が現れる。
床に置いた皿の上から苺を取って、
握りつぶすと一瞬、鮮やかに新鮮な果実の匂いが立つ。
―だが、それは夢だというように、匂いは消え、滴る果汁の色も、白い床から消える。
ひたすら流した涙の色も、叩き続けて滲んだ血の色も、跡形を留めない、
ただ白い壁と床が、私の中の色も全て吸い上げてしまったようだ。
かろうじていくつかの苺と、いくつかの錠剤とミルクを飲み込むと、
皿とコップをトレイに載せて押し出す。
いつもならトレイの後を追いかけるように、腕を伸ばす。
狭い受渡口に肩を押し付けて、精一杯腕を差し出すと、
トレイを取り出して、ぎりぎりまで腕を差し込んだ八戒の指先が、私の指先に触れることができた。
そのときの八戒の顔は見えなかったが、半ば悲しげに、半ば満足げな表情なのは判っていた。
闘いの後、吠登城で実験体として囚われていた私は三蔵一行に随いて長安まで来た。
与えられた多額の報奨金を手に、八戒は私を連れて、
さらに機械文明の発達した遠い国に赴き、私を、この部屋に入れた。
丸天井の上に天窓が一つ、隅にベッド、別の隅にバスルーム。
幾冊かの本が積まれた小さなテーブルと、椅子。
「、あなたの部屋ですよ、入ってごらんなさい」
言われるままに、歩を進め、真っ白な空間の寂しさに振り返った瞬間、
八戒との間に壁が迫り上がり、私と彼を隔ててしまった。
衝撃が強烈すぎて、私は茫然と座り込んだ儘、どれほどの時間、そのままでいただろうか…
悪い夢のような気がして、その壁を叩いた。
擦りむけた指の節が赤く汚しても、一瞬で白くなる壁。
息が、詰まる。
唐突に、壁に開いた、30cm×15cmの空間の向こうに、八戒の顔が現れた。
その遠さが壁の厚さだと悟った私は、声を失ったまま、彼を見つめた。
「これでは安全ですよ。誰もここには入れないし、食べ物も着替えも、僕が運んで来ますからね」
ひたすら、涙がこぼれた。
「八戒、どうして?」
「桃源郷が一応平和を取り戻したって言っても、世の中は危険や誘惑で一杯なんです。
は人を疑うことさえ知らなさ過ぎるから、僕はずっと、はらはらし通しでした。
―こうして、他の者から隔離して、僕しか見られないようにすれば、安心できますから。
どうか泣き止んで下さい。僕はいつもすぐ近くにいますからね」
「でも、…八戒とキスできない…抱きしめてもらえない…」
「僕だって寂しいですよ、に触れられないのは。
でも、を、他の者に見られたり接触されたりしないためには、少し位辛抱しないと。
僕からはの姿はいつも見えますし、声も聞こえます。ここでじかに話もできるし」
半ば悲しげで、半ば満足げな表情は、その時から、私の見るただ一つの八戒の顔になった。
どういう仕組みかはわからないが、確かに八戒にはいつも私の一挙一動が見え、声も聞こえていた。
所在なくめくった本で手を切れば、即座に傷薬とバンテッジが、
咳き込めば温かいレモンと蜂蜜が運ばれる。
呼びかければ、機械越しに八戒の声がすぐ答える。
受渡口の向うに八戒がいるときだけは八戒が見える。
でも遠すぎて、もどかしくて、トレイを押し出した後の受渡口に腕を突っ込んで、
八戒の名を呼び続け、八戒の指先が触れたときは、出して貰えるという希望が燃え上がった。
「ほら、僕はちゃんと居るでしょう?安心しなさい」
そして指先は離れて、カシャンと落ちた扉。
心のどこかが、欠け落ちた。
じかに話したいといえば、いつでもそこを開いて、来てくれた。
−でも、もともと私はあまり言葉を出さないし、
口を開いても胸が詰まって、何をいっていいか判らなくなってきている。
昼と夜がある世界にいるという感覚は、段々薄れてきていた。
夜―と思われる時間に照明を落としてみても、磨りガラスの天窓は、ぼんやりと白んで見えるだけだ。
「八戒」
久しぶりに聞く自分の声は、乾いている。
「眠れませんか?」
「うん…旅してたとき、野宿したでしょう」
「ええ…」
「あんなに星がいっぱいある空、初めてだったから、少し怖かったの。
でもね、わくわくもしてたから、眠れなかった」
「…。」
「ごめんね、起こしちゃった?」
「−僕も起きてましたから」
多分、真夜中を過ぎているのだろう。
静かさが保たれたこの部屋の外も、しんしんと物音が絶えた気配が伝わってくる。
その中で、かすかに、天窓の方から伝わる音。不規則なリズム。
―タ。
―タン、タ・タン。
―タタン。
―雨だ。
雨は八戒を辛くする。
私は起き出して、受渡口を軽く叩いた。
「来て」
開いた口に腕を差入れ、いつもよりもっと、押しつけた。
八戒の骨張った指に、一本でも多く触れられるように。
「痛くないですか…?」
「しばらくでいいから、このままでいよ?」
八戒の指が震えた。肩先がしびれた私の指が、冷たすぎたのだろうか。
傍にいられたら、もっと温めてあげられるのに。唇で。胸で。
八戒の頭を抱いて、外の音から守ってあげられるのに。
苺の色が、心を破る。500有余年前に、彼らの周りに拡がっていた血の色の記憶。
八戒にも誰にも、告げなかったことがある。
私が、女禍という名の女神であること。
天界というものが出来る前から居るから、私の額には印がなく、
三蔵たちは、人間だと思っている。
(あの妙な博士だけは、何か感づいていたようだが)
500年前の騒乱の前に、天界で、長い眠りから覚め、
あの四人を知って、そのときは、隔てなく四人を愛した
―与えられた運命に隷従していた自分に、
自由と、じかに触れ合う心の喜びを教えてくれたから。
500年前。長すぎる永遠の中で、初めて、自分の意思で何かをした。―地上に降りた。
吠登城に居たのは、彼らが任務を果たせないときに、そのとき在る世界の全て
―天上界から冥界までを覆し、混沌に還して、世界を再生するための、
いわば時限爆弾としての役割を果たすためだったこと
―は、表向きの理由。ただ彼らにまた、逢いたかった。
でも、生まれ変わった八戒に逢って、その心の闇と悲しみを知って
―彼のことしか見えなくなった。
指一本上げれば、この壁を―この建物も、壊して外に出ることも出来る。
でも、そうしたら、八戒の心は壊れて、二度と蘇らないのは判っていた。
私が自分から逃げた、そう思ってしまったら。
私がどこかに行ってしまうという不安に押し潰されたら。
ここから出て、八戒と一緒にいるために、私ができることは、一つだけ。
初めから判ってはいたけれど。