eclipse




しばらく前から、僕は横にはならなくなった。

の部屋をモニターする隣の部屋に座ったまま、時々、一時間、数十分と眠る。

の食事を用意したり、生きる上で最低限の必要を果たすためにだけ、

そこを離れるときも、モバイルを手放さない。

が眠っている間さえ、起きている僕は暗視映像で、その姿を見つめていた。

ズームして、枕に散った長い髪や、さらに細くなった肩を見ると、

甘い香りや、柔らかな手触りがありありと蘇り、切なさが胸を刺す。


赤ん坊のように、真中がふくらんだ唇、押し殺した吐息、含羞に染まった耳元、

闇の中で灯りがともるような皮膚を思い出しながら、僕は自分を慰める。

僕の手に導かれて、おずおずと触れた華奢な指先の熱を反芻する。


掬い上げるとすっぽり掌に納まる柔かな胸のふくらみ。

僕の点けた跡が絶えなかった白い喉。

僕の頬を擽る長い睫。


始めは本を読んだり、ぽつりぽつりと話もしたも、

この頃はただ、虚ろな顔で座って暮らしている。

もともと、無口だったが、数日声を出さないことも稀ではなくなっている。


―何を言えといえるだろう、僕に。


栄養剤で体調は保たれていても、痩せていくのが気になった。

それでも、見ていて苦しいほど愛らしい。

一度、この部屋の製造会社の人間がメンテナンスに来たとき、

仕方なくモニターをつけたままだったのだが、

その若い男は、システムのチェックをしつつ、彼女を盗み見ては見惚れていた。

多分帰ったら、彼女の記憶を反芻しては、自分のイメージの中で、彼女を涜すに違いない。

そう思ったときはもう抑えられなかった。

僕はエレヴェーターで降りていった彼の心臓に気を送り、止めてしまった。

それから、メンテナンスには人工知能しか来ないように手配している。


うとうとしていると、鋭い電子音が鳴った。

部屋には彼女の体温、呼吸、心拍数等を監視するモニターもついていて、

異常があれば直ちに警告する。

はっとしてズームした彼女の姿は、ただ、ベッドに横たわって眠っているように見える。

ダイアログモニターを見ると、



「呼吸 感知せず:心拍 感知せず:体温 低下」



という文字が流れている。

落としてある部屋の明りを煌々と点けても、は反応しない。


!」

スピーカ越しに叫んでも、ぴくりとも動かない。

「−生体反応 感知せず:生体反応 感知せず…」

この部屋は、生きている者を一人、しか閉じ込めない。

中の者の死亡によって、契約は終了する。

壁は静かに下がって、床に吸い込まれた。

よろめく足を踏みしめ、ベッドに近づく。

…」



頬はまだ温かい。そっと合わせた唇も変わらぬ柔らかさで、僕を受け入れる。

啄むような、触れるだけのキス。のお気に入りのキス。

懐かしい髪の香りが僕を包む。


抱き上げて、建物の外に出た。

置きっぱなしの車に乗せると、街灯に照らされた顔は微かに微笑んでいる。

僕が閉じ込める前にはいつも浮かべていた、花の香りのような、優しい微笑。


「海に、行きたいといっていましたよね」

この街に来る旅の途中、海を見て、遊びに行きたいとはしゃいでいた。

そのうち、といなしたまま、僕は、あの部屋に連れてきてしまった。


―八戒、聞こえる?どこにいるの?声を聴かせて。

―八戒にキスしたいの、キスしてほしいの。


僕を咎める言葉は、一つもなかった。

僕のは仕業は、正気とはいえない。

誰よりも僕が判っている―でも、この先、誰かが彼女を奪ってしまう―

心を奪えなければ、身体を、或いは命さえ、奪ってしまうことを僕は怖れていた。


ただ、一度だけ、

―海に連れてってくれるっていったのに。

と、ぽつんと言われたとき、嘘に慣れきった僕の心も酷く痛んだ。

その痛みをもっと押し広げておかなければ、彼女に申し訳が立たない気がした。

今更、だけれど。


銀色に光る海を見渡す岬で、彼女を抱き下ろした。

深々と冷えた夜気の中で、その身体は温かく感じられた―温かい?

一時間あまり、エアコンもつけずに走ってきている。

それで、なぜ彼女の身体は仄かな温もりを失っていないのだろう。

肘や指も柔らかく曲がるし、唇も湿り気がある。



「私としても信じがたいのですが…」

女医は眼鏡を押し上げながら、口篭もった。

「心臓は動いてますね、一時間に一度位。

呼吸も、センサーで感知できないレベルですが、あります。ちょっと失礼して…」

彼女の瞼を押し上げると、夏の空の色の瞳が、まっすぐにこちらを見ている。

「瞳孔も開いていません。脳波も…計器に出ないだけで、多分微弱に存続しているのでしょう」

「生きている…んですね、元に戻る可能性は」

「こういう症状は…一つしか知りませんね。『眠り姫』です」



でも、彼女はキスしても目覚めない。

医者が帰ったあと、僕は真似をして、そっと瞼を上げてみた。

微かに微笑んで、僕を見上げるがそこにいる。

もうどこにも行かず、僕以外の誰も見ない、とその身体は言っている。

こういう形で、僕らは漸く、抱きしめ合える。キスができる。



愛してるという君の声は、いつも僕の耳に蘇るから、僕も愛してると囁く。

僕らは永遠に、お互いだけを見つめている。


Fin.

----------------------------------------------------------------------

「R- bloom in the heart-」様で以前掲載して頂いたものです。
自サイト掲載にあたり、多少加筆訂正しました。