鬼灯
ほのぐらい玄関先に、橙紅の実をつけた鉢がひっそりと置かれていた。
(今朝、なかったよな?)
時折、小さな変化が、心を揺らがせる。
静かな路地の奥に、自分を待つ小さな家があることを、 悟浄はまだ、信じきれずにいるのかもしれない。
軽い足音が聞こえ、軒灯がぱっと点って戸が開いた。
「お帰りなさい」
「ん」
は悟浄の視線を辿って、微笑んだ。
「買ってきちゃった。暑過ぎて、お花みんなすがれちゃったから」
「何て名だっけ、コレ」
「ほおずき」
は小さな如雨露で、並んだ鉢に丁寧に水をやりながら、
いつものように花たちに囁きかけている。
暑かったね。
喉、かわいたでしょ?
たくさんお飲み。
この花がら、もう取るね。
朝顔位は知っていたけれど、松虫草も白粉花も、に聞くまで知らなかった。
二度までは偶然。
三度となれば、運命。
初めて見たのは、斜陽殿だった。
女性が唯一、立入りを許される、出入りの商家用の勝手口。
「あ、ちゃんだ」
悟空が指差した先に、 袱紗を胸に抱いた、ほっそりした姿。
悟空が手を振ると、伏目がちに会釈が返された。
「誰よ?」
「三蔵の足袋、作ってるとこの人」
二度目は、賑やかな街中。
櫛巻きの後姿が水際立った年増の後ろに、
小さな草花の鉢を抱えた彼女が歩いていた。
「髪のものでも甘いものでもなくって、そんなのがいいのかい?変わった娘だよ」
困ったように小さな笑みを浮かべた、淡紅色の唇。
三度目は、夕暮の軒先。
街外れの質屋の蔵で、秘密の賭場が開かれる日だった。
「新しい壷振、迎えに行ってくれりゃ、テラ銭はまけとくぜ、悟浄」
顔位は、いつもの店で見かけていた。
最近刑期(つとめ)を終えて出てきた、苦味の利いた男で、
町に来た翌日にもう、出来た女の家に転がり込んだという。
聞いた住所(ところ)は、曲がりくねった路地の突き当たり。
濃くなりだした春の夕まぐれに、屈みこんだ白い襟足が、ほのかに浮かんで見えた。
「雨が降りそうだね…」
花の鉢に囁きかける声音は、春の夜気のように、やわらかい。
続いた言葉は、締め切った二階から漏れてくる、 間違いようのない物音にかき消された。
「劉サン、居るよな?」
親指で二階を指すと、真っ赤な顔で頷いた。
「あんた、名前は?娘さん?」
「です。ここで、住込みでお針子を…」
「しょっちゅうこんなじゃあ、居づらいんじゃねえ?」
「いえ、わたしは…でも、あの、お師匠さんと…情人(いいひと)には、気詰まり… かも」
悟浄を正視できずに、俯いて、襟元をぎゅっと合わせたの手を、掴んだ。
「二階のお二人さん!聞こえンだろ?劉さん、今日の場が立つの、質屋の邱永荘!
取り込みが終わったら、姐さんに連れてって貰ってくれよな!」
「あ、あの」
取られた手をどうしていいか判らずにいるを抱き寄せると、
悟浄は一際声を張り上げた。
「じゃあ、邪魔モンは退散すっから!
お師匠さん、は、今日から住込みじゃなくて通いになるんで!よろしく!」
「ちょ、ちょいと!」
襦袢を引っかけた師匠が障子を開けると、
抱きかかえんばかりにを連れて行く悟浄はもう、路地を出てしまっていた。
水を浴びて着替えた悟浄の前に、ビールと枝豆が運ばれる。
台所と茶の間は二足しかないのに、はいつもままごとのような盆を使った。
「も飲んでみな」
差し出されたコップからひとくち含んでみて、 しかめた顔は、拗ねた子供のようで、微笑を誘う。
「こんな苦いの、おいしいの?」
「ああ、暑いときはたまんねえよ…泡、ついてんぜ?」
上唇を指先で拭ってそのまま、顎をつまんで唇を合わせた。
「ここは甘くて、いつもの味」
「もう…」
そのまま抱き込もうとする腕から逃れて、は肩越しに笑った。
「掴まえられてたら、お茄子、真っ黒になっちゃう」
「お、焼茄子?」
「お味噌汁にするの、おいしいのよ」
「…今日、お師匠さん、機嫌悪かったんじゃねえ?」
「どうしてわかるの?」
「昼、煙草屋で劉サンが看板娘、口説いてるとこにお師匠さん飛んで来て、
耳引っ張って連れて帰ってたからさ」
「懲りないんだから」
蚊遣を焚いた縁先で、手を繋いで座り、取りとめない話をしている。
それだけのことが、こんなに満ち足りているのは、俺だけ?
「なあ、俺ばっか喋って、つまんなくねえ?」
「ううん、楽しい。…わたし、殆どうちで縫ってるだけで、おもしろい話もできないし…
それに、悟浄の声聴いてるの、好き」
「ほんと?」
力が加わった悟浄の手を、も含羞みながら、きゅっと握り返した。
「悟浄がわたしに話してくれる声聴いてると、 もう、一人ぼっちじゃないって嬉しくなるの。
前は、花の鉢に、そんなに話し掛けなかった。
答えてくれないから、寂しくて。
でも、もうそんなの、気にならなくなっちゃった」
悟浄はそっと、を抱き寄せた。
見つからない言葉の代わりに。
夏の長い日もようやく、倦み始めていた。
早く仕事を上がった悟浄が家に着く頃、
西陽がまともにふる玄関先は橙色に染まって、 ほおずきの実は色を失って見えた。
徐々に薄れる光の中、悟浄は鍔(がく)に包まれた実を掌にすくって、
見入ったまま、動かない。
「お帰りなさい…どうしたの?」
「さっき、夕焼けが真っ赤でさ。そん中だと、この実、色が見えなくなるのな。同じ 色だから」
は不思議そうに、悟浄の横に蹲んで、ほおずきを見つめた。
「前は、この時間、すげぇ好きだった。俺の眼も髪も紛れちまってわかんないじゃ ん。
俺さ、前、三蔵と西に、旅に行ったって言ったろ?」
「…うん」
「陽が落ちる方に向かって、こんな色ン中で死ぬんなら、それでもいっか、って思っ てさ」
悟浄はの腕を取って立たせ、頬に落ちた涙を拭った。
「今は、死んでもイイなんて、思ってねえよ。お前が泣くときも、笑うときも、傍に 居たいから。
一緒に、生きてこう。ずっと、一緒に」
一つになった二人の影は、やがて、夏の闇に包まれて見えなくなった。
了
昔某所にUPして頂いた作品。
先日ほおずき市に行った人にひと鉢貰ったので再掲。