浪枕


「お初にお目にかかります。弓香でございます。
わざわざのお名指し、ありがとう存じます。
どうぞご贔屓に」

爽やかな口跡に、重たくなりかけていた座敷に
すうっと、風が通った。


「まず、お近づきに」

ぴいんと熨斗目の正しい上田紬のお対に、帯はお納戸の献上。

差し出された杯に注す おの横顔に、
走らせた視線の鋭さが、
鋭さを隠し切れないあたり、
見た目よりもっと若いのかもしれない。

それにしては渋い好みだ。

はわざと、鬢を傾けて、その視線を捕らえ
艶な微笑みで受ける。

「さすがは土地で鳴らした方ですね」

くい、と空ける指先は、細い癖に、
器用に女の頸位へし折りそうな強さを感じさせる。

「そちらさまにも、お一つ?」

「ああ、彼は手酌が性に合う人なんで、放っておいてあげて下さい」

「あら、お寂しいこと」

綸子の上の大島の羽織も脱がない侭、黒足袋で胡坐をかいている男は
さっきからそっぽを向いている。

煙管を取り上げた前に、すっと、おが煙草盆を差し出した。

仕方なさげに振り向けた仏頂面に、
隅でつくなんでいたお雛妓が、はっと扇を取り落とす。

「おやおや、鳶乃ちゃんも一丁前に岡惚れかい?」

すかさず幇間が茶々を入れる。

抹香くさい装(なり)でも包みきれない、滴るような目鼻立ち。

その若い二人だけが客の座敷とは。

春は色々不思議なことが起こる、とおは思う。




「弓香姐さんでなきゃって…これはもう是非貰いなのよ」

わざわざ、3日も前から、土地(ところ)でも
一番の格式の待合の座敷を買い切り、
名指してくる客なのだ、と女将は押しの一手だ。

「でも、梅川さんも、もう先週からお約束しちまってるのよ」

「梅川さんにはうちから話、通しとくわよ…

あっちの河岸じゃあ、若くて財産家(ものもち)なのに堅くって、
お客の接待(もてなし)にも招ばれるんでも、ぱあっと費って賑やかなのに、
どんな妓(こ)がもちかけてもかわしちまうってんで評判なんですってさ。

こっちの河岸に初めてのお座敷かけるのに、
一流の妓(こ)を揃えて欲しいってんだから、
弓香さんに京香さんは是非に居てもらわなきゃあ。
土地(ところ)の面目が立たないじゃあないの」


その、京香も。

看板芸の三味線ひとすじ、芸者家の娘で借りのないからだの気楽さ、
旦那も間夫も要りはしない、
役者買いで泣くのはいつも芸者じゃないの、
と男嫌いを立て通し、
これが美人でなけりゃあ負け惜しみよ、と言われ続けのあの妓が。

一足さきに来ていた座敷から滑り出てきて、
内玄関を上がるおの袖を捉えた眸が、
妖しく熱を帯びている。

「ああ、姐さん、どうしよう…あたし」

柔らかい微笑に覆われた、冷たい眸に見られると、
撥を持つ手が震えそうだ、と、
おぼこな口をきいている。

「京香姐さんの名が泣くわよ?
惚れさせる位の意気で居てくれなきゃあ」



一見、人当たりよさそうに見えるけれど、
感情が動いたときに仄見える、酷薄な唇もと。
こういう男に惚れて、惚れられなかったら
それが一途な娘だったら、
さぞ辛かろう。

「こんな面白くもなさそうにしてる男(の)一人引っ張ってきて、
何しに来たんだろう、ってお思いでしょうね?」

「新しい河岸でまず内輪のお座敷は、よくありますわ」

「そう、僕とこのひとは昔なじみでしてね…内輪っていえばその通りですよ。
実はもう一人、なじみの仲間が居るんですが、
呼んでも差し支えありませんか?」

「ええ、どうぞ、お賑やかな方が…」

「じゃあ、入ってください」

奥の襖が、ためらいがちに少し引き開けられ、そこで停まる。

「遠慮は柄じゃないでしょう、悟浄?…まんざら、知らない仲じゃなし」



5810を踏んで頂いた猫夫人様のリク
「あの人がお座敷をかけて悟浄も呼んで」
というんだったと思いますが…
ずれてたらごめんなされ