「私を、ですか...?」

リストラを言い渡されに来て、降ってきたのは昇進の話だった。

体が一気に、冷えていく。

「ああ。君には次期にかなり大きなディールを任せたいと考えている。

このリストの中でチームに残したいメンバーを3人まで選択したまえ」

滑ってきたリストから目を逸らす。

「私たちの部は、チームでこれだけの業績を上げてきたんです。

表に出た数字は私のもののようですけれど、

私独りでこれだけのことが出来たわけではありません。

お話はありがたいですが...」

「見上げたloyaltyだな。だがそのやり方で君たちの会社は行き詰った。

我々はIndividualを重視する。

冷静になりたまえ。

今辞表を出して、我々が提示するほどの条件を他所で見つける保障はどこにある?」

唇を噛んだ。

表面的な数字だけでない。

国内の企業が真っ先に放り出したがる、

比較的コストが高い女性総合職を残し、

あまつさえディールマネジメントまで任せることで、

企業イメージは良くなる上に、

派手だけれどリスクも大きいそのディールが仮に、失敗すれば、

それを理由にあっさりと切り捨てられる。

本国から高い住居手当てを引き出して

遊び半分にやってくる幹部候補生よりはずっと、安上がりで、

成功すれば使える持ち駒として失敗するまでは使い潰せばいい。

他の企業を続々と食い散らしてきたconglomerateらしいやり口だ。

私がそれを承知していることを、あちら側も承知している。

例えそのディールに失敗しても、早期退職の額が減るだけで、

この会社でマネジメントディレクターの肩書きを一度手にいれれば、

次の階段は確実に増えていくことは頭ではわかっていた。

けれど、私が今まで夢中で、何よりも大事にしてきたものは....

隅々まで血液が行き渡らずに壊死していった会社の名前などではない。

自分が存在して生き生きと動いていた組織だった。

それがばらばらになって、表面は同じようでも、

はるかに巨大な企業の歯車になって、積んでいくキャリアは、

今はただ灰色に味気なくしか見えない。

「...今期の厚生制度は、継続されるんでしたね」

「ああ、君の有給休暇はそっくり残っている。

しばらく休んで考えればいい」


どうやって帰ったかは、記憶がなかった。

習慣というのは時にはありがたいこともある。

灯りがついていて、彼が来ているのがわかった。

「おかえりなさい」

温かい湯気。

「今日は、僕早く上がれたんで、お邪魔してました」

ジーンズとセーターに着替えて、

前に置かれたおいしそうなシチューを、飲み込もうとしたけれど、

手が動こうとしない。

買収の話は一度もしていないけれど、新聞でもTVでもしきりに報じられたから、

彼はすっかり承知しているはずだ。

心配して来てくれているのだから、ちゃんと話そうと思った。

「今日、Vicepresidentに呼ばれて...」

咽喉が迫り上げたけれど、涙が出てこなくて、苦しかった。

「私に、マネージングディレクターで、残れって」

「...それで?」

「返事は、してない。休暇を取って考えるって...」

彼はすっと立って、寝室に消えた。

どれほど居たのだろう。

シチューの表面に張り出した膜を眺めていると、

出て来た彼は、私の出張用のガーメントバッグ(出張から帰ると詰め直して置く)とコートをもっていた。

「僕の家に寄って、車出していきますよ」

そこから、記憶は夢のように曇っていく。

やはり出張用らしい自分のバッグを積んだ彼の車で、

途切れ途切れに、眠り続けた。

時折目を覚まして考えたのは、

マットの上に置きっぱなしのスプーンのこと位だった。

「着きましたよ さん」


まだらに白いものが散る灰色の空の下で、ひたすらに白いその街は、

古い温泉街だった。

ぼんやりと彼の後について、旅館の長い廊下の先の離れに入った。

「ハンドバッグ...置いてきた」

財布も、カードも、携帯も、名刺も腕時計すらも、無い。

普通なら不安でいてもたっても居られない状況なのに、

鈍い困惑が、ふわりと落ちてきただけだった。

夕方に付け直す習慣でバッグに入れていた香水が無いことの方が、

なんとなく不安だった。

ガーメントに化粧品や下着は、あるけれど。

「ここでは、何も要りません。僕に任せていればいい」

私は反駁する気力はもう無かった。

ひとときでも、男に拠りかかっているのは、なんて楽なのだろう。


私の状況にそれ以上の説明は要らなかった。

業界は違っても、一線で働いていれば、彼のように切れる男には手に取るようにわかることだ。

もし、彼の前に少し、火傷のように過ぎていった、あの水商売の男だったら。

どれほど説明が要っただろう。

そもそも理解など望めない範疇のことかもしれない。

あの男はただ、いろごとや容色のこと以外にものを考える女が珍しかっただけで、

私が浸っていた殺伐とした世界のことなど興味もなかったのだから。

私にしたところで、出来高や、金利や、FRBの...

Green(ドル紙幣)の匂いのかけらもない彼が物珍しい刺激に過ぎなかったのだから、おあいこだけれど。


「思い出し笑い?珍しいですね」

耳を挟む彼の唇も、いつものように乾いていない。

「僕、引っ越そうかと思ってるんですけどね」

「ふうん」

「もう少し、広いところに。XXに割にいい物件が売りに出てるんです」

狭い湯槽の中で、体が反転させられ、雫のついた前髪の間から、

深い色の瞳が覗き込んだ。

「一緒に、住みません?」

「...いつまでローン分担できるか、わからないのに?」

「そこらのリスクは、承知の上で」

「それも大きいディールだわ...」

彼の首に抱きつき、肩に額を休める。

このまま、彼に拠りかかって行こうか。

それとも綱渡りに戻って、彼とも棲もうか。

それとも、一人で...?

或いは…三人になる?

多分明日目覚めたら、答えのいくらかは見えているはずだ。

今はまだ、心も頭も、重い蜜のような時間から脱け出したくない。

また新しく清らかに整えられた床に降ろされ、

今度は私から、彼の帯を解いた。

雪の降る音のない音も、呼吸をひそめれば、

今なら、聞こえそうな気がする。




5585を踏んで下さった雪姫様のキリリク八戒ドリームです。
甘いのはこのへんが限界です、すいません!
別の八戒ドリ「Platinum」と微妙にリンクする話です。