Platinum


「貸してね」
返事を待たずに、銀の函に納まった瓶の、
濃い癖に澄んだ香りを噴きつける。
髪、喉もと、手首。
前に置いていったニットをインナーに。
シフォンのスカーフの代わりに、彼のチーフを首に結ぶ。
昨日破られた網タイツは、行きがけに買ったストッキングに履き替えて。

見る人は小物など変えても、同じ服だと気づくし、
見ていない人は何にも気づかない。
ただ、草臥れた気持で朝を歩きたくないだけ。
幾らか腫れた瞼は、サングラスに隠す。
心地良い筋肉疲労は、微笑に紛らして。

 

「同じスーツに、違う香りとは刺激的過ぎません?」
髪を梳く骨ばった長い指。
数時間前まで、あちこちをかき乱して、私に火を点け続けた癖に。
するりと腰を抱く堅い腕。
僅かな眠りに私を沈めた、鋼の枕。
「そう?」
仰け反って、乾いた唇と、口紅をつけたばかりの唇を軽く触れ合わせる。
足の指の間まで辿ってきた熱い舌を受け入れてしまったら、
やっと薄い膜を張った夜が、溢れ出てしまうから。
「香水も無しに外に出ていくなんてはしたないもの…」
半分は嘘。
殆ど汗をかかない貴方と私の皮膚の隙間を、
体温が上がると湿潤に変るこの香りが貼り付けて行く。
そんな夜の記憶を纏う位、
私ははしたない大人になってしまっているのだ。
何食わぬ昼間の顔で、キイを叩く、話す、クーリエに微笑みかける。
全くそ知らぬ風に、押し込めると、
獰猛に、スカートの陰で騒ぎ出す記憶を、
香りの膜の下であやして微睡ませる。

 

コーヒーを買いに立ち寄ったスタンドで、
すれ違った男は、紅い函の、あの香りがした。
黒い短い髪の後姿はどこも似ていないのに、
私はまだ、涙ぐむ。
ほとんど習慣のように。
彼の望むものになれなかった自分を悼むように。

 

ビルの入口にさしかかる辺りで、
携帯が震える。
こんなタイミングを図れるのは、貴方だけ。
「立て続けですけど…今夜は?」
紅い風に悩まされて、一人では眠れない、きっと。
「あのバーにいるわ」



Fin.