長恨歌:現世編
爪先はもう冷たさを通り越して、針の束を踏みしめる感触を繰り返していた。
辛うじて血だけは止めた脇腹と、左腕の痛みは、灼けた金属の感触で心臓を圧し拉ぐ。
次は、もう立ち上がれない。
何度目か、もしかすると何十回、何百回目かにそう思いながら、
僕はまた、忌々しい雪を掴んで身を起こした。
乾いた雪片を吹き付ける風の唸りと、骨のように薄灰色の樹々が果てしなく連なる光景は、
希望も絶望も萎ませ、ただ力が尽きるまで惰性で人を動かしていく。
けれど、もう、僕の螺子は切れてきて、膝が、がくりと崩れる。
倒れた衝撃で傷口が開いたらしく、腹の下にわずかにぬくもりが拡がり、背中には悪寒が走った。
「まだ、貴方のお命はここでは尽きてはおりませぬ」
その言葉は何故か、風の音をすり抜けて届いた。
暖かい指が、頬に触れる。
「さあ」
その手を掴み、顔を上げた。
灰色の濃淡の視界に鮮やかに浮かんだ、淡紅色の唇。
*****
「...ここは?」
「傷を負われた方をお連れする湯治場でございます」
鉢の水で手を濯いでいたそのひとが、振り向くと、
象牙いろの被衣(かつぎ)の陰に、あの唇が花開いた。
「お起き遊ばしますか」
扶け起こされると、やはり傷口は疼く。だが先程までの命を削るような苦痛ではなかった。
薄暗い部屋の空気は暖かく、上着を脱がされていても丁度良かった。
「お付けした薬で傷口は癒えますが、骨肉の傷みは除れませぬ。
まずは、この家(や)の裏手にございます湯にお入り下さいませ」
低い柔らかな声が、しずかに耳に流れ入る。
傍らにあった綿入れの長衣を羽織り、天井の低い廊下をついていった。
きなりの厚ぼったい筒袖の上着と短袴、羊皮の履(くつ)。
束ねた黒髪を覆った長い布は目深に白い顔を隠し、ほそい首を一巻きして背に流れている。
こんな粗衣に包まれるには、あまりにも朧たけたひとだ。
壁の燭台を取って、僕をいざなった、舞うような指先の優雅さは、
翻る羅(うすもの)の袖、長く曳く裳、金釵や翠玉(すいぎょく)の煌きを彷彿とさせた。
厚い扉の向こうは、岩窟を利用した湯殿だった。
空気抜きらしい、高処に穿った穴からは、ちらちらと雪片が舞い込んでいたけれど、
濛々とたちこめる湯気の中にあっという間に消えていく。
簀(すのこ)の上に編み垣を巡らした簡素な脱衣所に、
真新しい手拭や粗布が幾重ねもととのえられてあった。
「もうひとつ、薬をお持ちいたします。
ゆるりと湯浴み遊ばされませ」
裂け目はふさがっても、鈍い痛みを孕む傷口を心配しながら、
岩を刳り貫いた浴槽に浸かってみた。
傷口は、開かない。大した薬だ。
一隅から滾々と湧き出て溢れる、澄んだ湯は、
まだ芯が冷えていた体をほとびさせ、疲れを溶かし出していく。
僕は滑らかに削られた岩に頭を預け、心地よさにばらばらに解けていく思考を何とかまとめようとした。
これは新たな罠かもしれないし、或いは雪原で斃れたまま見ている夢かもしれない。
戦いの最中にはぐれてしまった三蔵たちは、何処に居るだろう。
あのひとは、何か知っているのか?それよりまず、誰なんだろうか?
妖怪のにおいは全くしない。
でも人間の若いむすめが、こんな人里離れた処に独り居られるとも思えない。
「どうぞ」
「...っ!」
盆を捧げた彼女が、僕の傍らに膝を折っていた。
雪が堆く盛られた盆に、玻璃の瓶(へい)と杯が仄かに輝いて、一枝、添えられた緋桃を照らす。
「きれいですね。…こんな真冬に、どこでこんな花が?」
「貴方におつけした薬の器の濯ぎの水を遣りますと、樹木は一年と一月、花を絶やしませぬ」
瓶を傾けるほそい指の先は、花びらと同じ色に染まっていた。
注がれた"薬"は、火照った喉を涼しく降りて、仄かに果実の香りを残して染みとおる。
促されるまま杯を差し出したとき、脇腹の痛みが消えているのに気づいた。
「...これは、一体?」
「蟠桃園の、桃の葉の露を集めた甘露水でございます。
骨肉の傷みを内より癒して、経絡の乱れを正し、御身の精をを養いまする」
「貴女は、天女なんですか?」
あの唇が、微かに綻んだだけで、答は無かった。
盆に延ばした手を、捉える。
「こんなに、冷たくなって」
震える指先を握り締め、もう一方の手で被衣を引き剥いだ。
"眸ヲ回シテ一笑スレバ百媚生ズ"
吸い込まれるような輝きを湛えた切れ長の瞳が、ひたと僕を見つめている。
歓びが極まって、哀しみになったような、せつない微笑。
肩を抱いて引き寄せ、唇を合わせた。
零れた涙を唇で辿り、白く透き通る耳朶をなぞる。
あの甘露に似た、涼しい香りに酔いながら、囁いた。
「名前を、教えてください」
「...、と申します」
俯いたうなじに散った柔らかな後れ毛を払い、甘く噛むと、
雪白の膚(はだ)が櫻色に染まる。
押し広げた襟元からこぼれた、眩しいほど白いまろやかなふくらみも、
僕の性急な指の間で、血の色を浮かべた。
頂の飾りは、湯の中に落ちた緋桃と同じ色だ。
「雪の中に浮かぶ、花びらだ...」
袖口を堅く掴んでいた手が解け、上衣が滑り落ちた。
短袴の紐を解いて、靱やかな裸身を掬い上げた腕の内側に、ざらりと触れる、何か。
不審の色を捉えた彼女は、するりと僕の腕を逃れて、背を向けた。
「...!」
背中一面を縦横に走る、赤黒い瘢痕。
肩や四肢が真っ白いがために殊更、凄絶だった。
「...わたくしは、罪を得て、ここに居ります」
傷跡は、むしろそれ以外の場所の美しさを際立たせ、
激しく情欲をかきたてる。
僕はかろうじて、掠れた声を絞り出した。
「何の、罪ですか」
「恋の罪でございます」
「…壁に、手をついてください」
盛り上がった瘢痕は、楽園の細い蛇を思わせた。
そのひとつひとつに唇をつけながら、僕は荒っぽく、彼女の中に押し入った。
*****
「あの、木の間の細い道をまっすぐにお進みになれば、人里に出ます。
お仲間にもお会いになれるでしょう」
「さん、貴女は...大丈夫ですか、また、独りになって」
また深く巻かれた被衣をかきのけ、彼女は柔らかく微笑った。
「貴方が旅を了えられたとき、わたくしの罪功も尽きまする。
もう五百年余り、お待ちして、お逢いできたのですから...
きっと、復た」
細かい雪を含んだ風が巻き上がり、目を覆った隙に、
彼女の姿はかき消えていた。
僕は指し示された道へ踏み出し、振り返らなかった。
この旅を了えるために。
『復た』と彼女は云ったのだから。
天界・前世編