長恨歌:天界編


「新しい御酒をお持ち致しますゆえ、何卒、...その間だけお放し下さいませ」

「はは、行かせれば戻って来るものか。
きむすめは底が浅うて、思惑が丸見えじゃ、かわゆいのう」

脂ぎった手が肩にかかる。酒臭い息が頬にかかって、鳥肌が立った。
殿上したての仙女は、弄ばれがちだと、識ってはいた。
でも、こんな情け知らずの男の手に捕まった我が身のつたなさに、
そして、逃れる術の一つも知らない、
男のいうとおりの小娘である口惜しさが、
涙に結ぼれて、溢れかけたとき。

「僕に、お酒、もらえます?」

柱の影から、のんびりとした声を先触れに、人影が歩み出た。

「今、取り込み中と判らぬか、野暮めが」

「すいません、軍人は野暮の集まりがお約束でしてね」

「軍人風情がこの蟠桃会に...げ、元帥閣下!?と、飛んだご無礼を!」

官人は顔色を失い、しきりに叩頭しながらよろよろと遠ざかっていく。


「ありがとう、ございます」

恐る恐る見上げた元帥閣下は、そんな偉い方なのに、お若く、優しいお姿だった。

「只今、御酒を」

閣下も並んで歩いて来られる。

「あの...?」

「貴女が往復して来られるより、一緒に行った方が早いですから」

広間を半ば横切ったところで、閣下は佳肴を並べた卓を囲む客の群れを一瞥される。
さっきの男が、縮み上がって逃れ出ていった。
私が閣下と離れるのを待ち受けていたらしい。
...そのためにいらして下さったのだろうか。


*****


仙酒の甕の並ぶ回廊には誰も居なかった。
新しい玻璃の瓶に酒を汲むと、崑崙山の新雪の詰まった螺鈿の櫃を開けて、
翠玉の鉢に雪を敷き、瓶と杯を埋める。
酒甕の脇に一抱えも活けられた緋桃を一枝折って、雪に挿し添えた。

閣下は、廻縁に腰をかけて、外を眺めておられた。

「お待たせ致しました」

「貴女、お名前は?」

と申します」

さん、そのお酒、もう少し遠くまで持ってきて頂いてもいいですか?」

「?...畏まりました」

跪いて捧げていた鉢が、ひょいと取り上げられた。

「あ、あの、閣下?」

黒い軍服の背が、宴の広間と反対の方角へ向かわれる。

(お庭に向かわれるのかしら...?)

「御酒はわたくしがお持ちしますゆえ、お返し下さいませ、閣下」

「僕、天蓬っていうんですよ。天ちゃんって呼んでくれたら返そうかな」

「さようなお戯れは...っ!」

突然足を止められた閣下の背に、危うくぶつかりかけた。

「もう逃げ出すか?元帥」

「人聞き悪いなあ、敵前逃亡した上司の替りに顔出したんだから、
労いの一言位あってもいいでしょうに。西王母様にも挨拶はしましたし。
それに、こんなところに居て人のこと言えるんですか?西海竜王殿」

「...捲簾大将には、明日中に始末書持参で出頭するよう伝えておけ」

「見つけ出せたら申し伝えます」

至極慇懃なのに、笑いを含んだようなお声でお答えになって、
竜王様の脇をするりと過ぎてゆかれる。

おあとを随いてゆきながら、小腰を屈めると、釣り灯篭の光が、
竜王様のおん顔(かんばせ)とお髪(ぐし)の上に水のように煌き流れ、
畏れ多いことながら、見惚れてしまう。

紅いおん眼は、柔らかく私を見下ろしておられた。

「...上司に、似てきたようだな」

「お言葉を返すようですが、僕ももともと相当風流なんですよ」


***********


閣下は、側廊の階(きざはし)を降りて、蟠桃園に向かって歩みだされた。
枝折戸の前で、一歩横に退かれる。

「お願いします」

印を結び咒を唱えると、戸は音を立てず内側に開く。

「ああ、いい匂いだ」

宴に出す実は、ひと月前に摘み取られて、地下蔵で熟成されていたので、
いまや果樹たちは、燦爛と花を咲かせ、甘い香りが園いっぱいに漂い流れていた。

「僕たちの官舎の辺りは桜が多いんですけど、あれは匂いがないでしょう。
僕、いっぺんこの中でお酒呑んでみたかったんです、風流でしょ?
でも忍び込んだら大騒ぎになっちゃいますしねぇ」

園には申し訳のように、編み垣と枝折戸があるだけだけれど、
結界を踏み越えた者があれば、土地神と、私たち官女にたちまち知れて、
西王母様のお咎めを受ける。
と、いっても、桃を奪われないための決まりなので、
今宵、元帥閣下が御酒を上がられたとしても、何の障りも無い。

閣下は園の中ほどの、花が咲き満ちた枝を長く横に延べた樹を見上げると、
鉢を小脇に抱えて、身軽く上ってゆかれた。

さん、上がってこられますか?」

「はい」
お酌をしなければ、お供して来た意味がない。
絹の履を脱ぎ、裳裾をからげると、私も同じ枝によじのぼる。

「人は見かけによらないなあ」

(殿上したんだから、もう園では草の上を歩くか、天衣で翔ぶかですよ!)
桃を摘んでいたとき、先輩に叱られたのを思い出したが、もう遅かった。

「は、はしたないところをお見せいたしまして」

慌てて裳裾を整えようとしたら、ぐらりと身体が傾いた。

「おっと!気をつけて。いいじゃないですかそのままで、綺麗な足だし」

「も...申し訳ございません......あの、閣下...その、もう大丈夫ですので」

腰を支えて下さっているおん腕が、動かない。

「まあそういわずに、このまま、注いで下さい」

美味しそうに杯を干されると、閣下は器用に片手で私の手から瓶を取り上げ、杯を渡された。

さんもひとつ、いきましょう」

「え、あの私、いただいたことがございません...それに、あの」

「まあまあ2人だけじゃないですか、堅いこと抜きにしましょう、
独りで呑むのって淋しいんですよ、少しにしときますから」

杯の底にほんの少し、注がれた仙酒を、恐る恐る口に含んだ。

とろりと広がる芳香に、目の前が金色に霞がかってくる。

「美味しいでしょ?」

「はい」

さんは、素直ですねえ」

金色の霞の向こうで、閣下が笑われた。

お優しくて美しいおん顔(かんばせ)が、ぐんぐんと近づいてこられる。

唇に、温かく柔らかなものが触れた。


続く

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