長恨歌:天界編3 



そっと、杯を取り上げると、繊い指が、今あったことを確かめるかのように、唇に触れる。
ひとくちの酒に仄かに染まったくれないが濃くなって、咲き満ちた桃の花弁の色になった。
もの問いたげに見上げた眼差しがたゆたい、伏せられる。

(何を、なされたのでしょうか?何故?)

口にしない問いを、一瞥で伝えてしまう、眸の素直さ。
今まさに披こうとする美しい蕾の、余りの初々しさに、柄にもなく、胸が痛んだ。

僕らが目にしている胡散臭い存在と違う神や仏が存在するとしたら、
...やっぱり、粋なんだか、試そうとしているんだか、
それともただ、揄って(からかって)いるんだろうか。
長く退屈な永遠に楔を打ち込まれて、落ちゆく先が見えている僕に、
この世界にまだ心惹かれるものがあると、揺さぶりをかけるために、彼女を...。

「...閣下?」

「ああ、すいません、ぼんやりして...考えてたんですよ、
地上の人間は、色々願い事やわからないことがあると、
天上の神や仏に祈るそうなんですけど、
僕ら天上界の者が祈る先はどこなんだろうって。
まあ僕や捲簾なんかいい加減悪いことやってるんで
今更祈る先もあったもんじゃないですけど、
...ナタクや、悟空みたいな子には、そういう存在があってもいい」

何で、こんな独白を聞かせているんだろう。僕も、酔っているらしい。

「ナタク様...闘神太子様のおんことでございましょうか?」

「え?ご存知なんですか?」

不浄の存在である彼のことが、よもや天上でも特別に清らかな、
揺池の官女の耳に入っているとは。

「この園に一度、お見えになられましたの...桃を偸み(ぬすみ)に...あ!
内緒でしたのに...閣下、どうぞ、お忘れ下さいませ」

指先を合せて見上げる表情(かお)は、真剣だけれど。

僕らの世界では、多くの命を屠る禍々しい禁忌の『彼』のことも、
この別天地の花園では、まるで、先生が背を向けている間に
悪戯をした子供のことのように、無邪気な内緒ごとなのだ。

「彼が来たときのことをお話ししてくれたら、僕も内緒の仲間に入れて貰えますね?」


*****


彼は息を殺していたけれど、袖の端が白くが翻って、彼女の目を捉えた。
そ知らぬふりで下を通り過ぎ、油断した隙を逃さず、

「こらっ!下りてきなさい!」

「わっ!ーっと!」

小柄な姿が、見事に宙を舞って、柔らかな青草の地面に着地した。

「あなた、どなた?てっきり、『園』の子かと...どうやって入ってきたの?」

「俺、ナタク。ここの桃盗ってやろうって思って来たら丁度、姉ちゃんたちが
ぞろぞろ入ってったからさ、こっそりくっついて入ってやったんだけど、
案外姉ちゃん手強かったなー」

「ここの桃は盗っちゃ困るわ。私たち、先週ずっと、今度の宴に使う実を決めて、
樹に印つけて表も作ったの。明日から摘むのにやり直す時間は無いのよ」

「そっか、...じゃあ仕方ねー、帰るわ」

「分ってくれてありがとう。ここのほど神通力はないけれど、同じ位美味しい桃があるのよ、
よかったら、食べていらっしゃいな」

手を差し伸べると、彼も手を出しかけたが、赤くなって横を向いた。

「つ、捕まえとかなくたってちゃんとついてくって」

果樹園の奥の隅には、まだ若々しい樹や苗木に囲まれて、草葺の家がひっそりと建っていた。

お姉ちゃんだ」

遊んでいた小さな女の子が駆けてきて、彼女の腕に抱きつく。

「このお兄ちゃんだあれ?」

「ナタクっていう私のお友達よ。だから小蓮や皆ともお友達なの。桃を頒けてあげてちょうだい」

「いいよう、あさ、とったの、ひやしてあるからいっしょにたべよう、こっちだよ」

小蓮はナタクの手を引っ張って、家の裏手の泉に向かった。
わらわらと出てきた子供たちが、彼女にまとわりつき、ナタクにも屈託無く話しかける。

次々と剥いてもらった桃に、子供たちと一緒に夢中になっていたナタクが、ふと彼女を顧みた。

「姉ちゃん、食わねえの?」

「私は、御殿の外では何も頂けないの。
でも御殿ではたくさん桃を頂いているから大丈夫よ。ナタクは優しいのね」

「...ここの桃は?」

「果樹園の仙桃は、3000年、6000年、9000年に一度熟するけれど、
9000年の功を経るまでに半分ずつ枯れていくの。
少しずつ、足していく苗木をここで育てているのよ」

「ふうん...」

「ねえねえお兄ちゃん、たべおわった?あそぼう!」

「お兄ちゃんは、木登りが上手よ、ね?」

小蓮の口の周りを拭いてやりながら、彼女が片目を瞑った。

「あ、ああ」

「じゃあねえ、つぐみの巣みせてあげる」

「いまはみんな巣立ってていないんだ!」

「卵の殻があるの端っこから見えるんだけど」

口々に騒ぐ子供たちの前で、ナタクは隣り合った樹の頂まで身軽く登り、
高い枝を撓わせて、巣の中に手を伸ばした。

「ほらよ!」

鮮やかに宙返りして、降り立った掌には、小さな斑点のある殻が載っていて、
そっと、渡してもらった小蓮は、嬉しさで大きく息を詰めて、ナタクを見上げる。

「ありがとう...」

「お兄ちゃんかっけー!」

「裏の山行こう、来月には木苺摘みすんだ、ぐみの実も生ってる」

「えー川行って飛び石投げしようよ」


「ナタク様!」

刺々しい怒声。
子供たちは声を失い、凍りつく。

怯えた土地神を引きずって、踏み込んで来た男たちが立ちはだかっていた。

「無闇にうろつかれてはお父上のご機嫌も害しますぞ!即刻お戻りを!」

「...ごめんな」

ナタクはそっと子供たちの手を退け、彼女の方に押しやった。

「そこの娘、闘神太子様がことは他言無用だ、心得ねばその子供らとて容赦せん」

子供たちを背に庇った彼女は、唇を噛み締め、頷いた。

「ごめんな」

もう一度呟き、ナタクは歩き出した。

「お兄ちゃん、また来るよね、来てね」

小蓮の涙まじりの声に、ナタクの足が止まる。

「分らぬ小童...っ!」

駆け戻りかけた男の鳩尾を一撃しておいて、ナタクは小蓮の前に膝を折った。

「来てえよ。友達も連れて。
でも俺、いろいろしなきゃなんないことあるからさ。来られなくても、勘弁な」


******


「丁度、ひと月前でございました。何もお咎めがございませんでしたから、
ナタク様が庇って下さったかと存じます」

さん、闘神太子が何かは、知ってるんですか?」

「西王母様にはご報告しましたので、そのとき、少し伺いました。
まだ、あんな幼い方に、惨いお役目ですのね」

「ええ、惨い話です。...彼は嬉しかったと思いますよ。
さんたちに、当り前の子供扱いしてもらえて。
『園』というのは、西王母様がお創りになったという?」

「ええ、親を亡くした子を、揺池の方々が育んで下さいます処ですの。
私も、あそこで育ちましたので、今もよく参ります」

「ご両親は...すみません、立ち入ったことですね」

「いえ、昔のことでございますから。父は、東方軍の中将でございました。
15年前、妖怪討伐で命を...、母は元々、病がちでしたので、立ち直れずに、じきに...」

15年前の、東方軍の壊滅に近い大敗。
それが皮切りとなって、次々に妖怪群の氾濫が起こり、闘神太子の登場を、必然のものにした...
それが李塔天の遠大な計画によることはほぼ、確信に至っている。
つまり、彼女もまた、あの男の犠牲者に列なる一人なのだ。


僕は、もう八方塞がりだった。

李塔天を討つことが出来ても、天帝自身、または李塔天に代る誰かがナタクを利用し、
対抗勢力が悟空を担ぎ出して、あの子達を闘わざるを得ないよう追い込む。
李塔天を殺せば、ナタクが僕や捲簾を殺すのはほぼ確実で、僕らではあの子には勝てないし
万一相討でも、金蝉だけでは、あの子の代わりに据えられるだろう悟空を護り切れない。
観音菩薩は天界軍の勢力の埒外だ。
かといって、今更傍観していても、李塔天は必ず、僕らを抹殺する。
西方軍や、李塔天の支配を潔しとしない天界軍が蜂起し、闘神太子軍と衝突するだろう。

あんな子供たちの犠牲の上にぬらりくらりと続く永遠を剥ぎ取って、
同じ修羅に塗れるなら、自分から火蓋を切る方が笑って死ねる。
大義名分だの正義なんて恥ずかしいお題目じゃない。
あの子達がこれ以上苦しむのを見ているのが厭で、
あんな薄汚い男に踏みにじられるのも御免蒙りたいという、僕の勝手で引き寄せる死だ。

どのみち、死んでいくと決まっているのに、
この美しい蕾が他の男の手にかかることが許せないなんて、どの面下げていえるか。


(続く)

(天界編1 に戻る)