長恨歌:天界編3 



閣下のおん掌が、頬を包まれた。
無言で見凝められるまなざしは、胸の奥底を揺すぶって、遠い記憶をかきたてる。
堪えかねて、眸を伏せると、肩から背に滑ったおん手に抱き寄せられ、硬い軍服の生地と、煙草のにおいに包まれた。
涙が、溢れた。

「貴方様も…還らぬ戦いにおいで遊ばすのですか、私を、嘆くものたちを、置いて…」

お答えはなく、ただおん腕に痛いほど、力がこもる。

「父が…最後の戦いに参ります前の夜…
貴方様と同じ、哀しい眸で、膝に乗せた私を見凝めておりました」

唯一の、父の記憶だった。
父の顔ももう定かには思い出せないのに、その眸の傷ましい哀しさだけは、胸から消えない。

「僕は…もうすぐ、罪びととして死んでいく身です。
僕が殉じようとしているものを、この世界は容れようとはしません。
さんが、僕と関わったことすら、人に告げては災いとなるかもしれない。
僕を悼むことも、弔うことも、許されないでしょう。
でも、僕の罪は、貴女に恥じなくてはならないものではありません、決して」

頬を拭われる指先の優しさが、なお、涙を誘って熄まない。

「貴方様の貴いお命で贖わねばならないもの、なのですか...どうしても?」

「貴くなんか、ありませんよ」

おん微笑(ほほえみ)の美しさが、私を遠くへと押しやろうとなさるように、切なかった。

「死んでいくと告げた者が求めたら、優しい貴女が拒めないだろうことを利用しても、奪いたい、ただの男です」

温かい雨のように、おん唇が唇に、頬に、耳朶に落ちて、この身を溶かされる。

さんの、初めての花を摘みたい、僕が死んだあとにも、決して忘れられない印を、
貴女の躰に刻み付けていきたい」

「閣...」

「天蓬です」

「天蓬、様...」

堅いおん袖に掴まって、懸命に言葉を探した。

「置いて、ゆかないで下さいませ」

奪うなら、この命ごと。
長い接吻(くちづけ)が、言葉に結ぼれない思いを飲み込んでゆかれる。

ふわりと、風が巻いて、柔らかな草の上に、抱き下ろされていた。
長い上衣を敷いて、横たえられる。

「僕も...貴女の父上も、貴女の居ない世界のために戦いはしません。
貴女が、ナタクや悟空や他の子供たちと楽しく生きてゆくことが出来るのなら、
僕らの命も、無駄には消えない...いとしい さん」

帯が解かれ、薄絹の単(ひとえ)の襟が寛げられると、
けざやかな月の光に曝されることに堪えられず、おん腕に縋った。

「あなたの躰はどこもいい匂いだ...」

胸の上に屈まれたお顔は見えないけれど、途切れないお声に、安心する。

「真っ白なふくらみの頂に、可愛い花びら。
さっき貴女が持ってきてくれた雪の上に咲いた緋桃と、そっくりです」

初めは冷たかったおん指が熱く私の手を握り締め、
薄いおん唇に散らされた花が躰中に咲く頃には、夜は、明けかけていた。





*****





天界をゆるがした乱は、静まりつつあった。
この揺池にまでは、流石に戦の余波も及ばず、雷音寺に難を避けておられた西王母様も数日でお帰り遊ばすと知らせがあった、その日に。

という官女、叛逆者の一味の疑いがある、大人しく縛につけ!」
「この揺池は禁域と知っての狼藉ですか!」

庇って下さる姉官女様方にも、西王母様にも、累を及ぼしたくなかった。

「参ります。...お騒がせして、申し訳ございません」


仙界の外は、大気が濁って息苦しかった。
引き据えられた薄暗い部屋には、隻眼を隠し、だらしなく衣をはだけた男が一人居るだけだ。

「天蓬元帥...いや、もうただの死んだ叛逆者だがな、あの男のものだそうだな」

脚が骨を失ったように、くたくたと躰が沈んだ。
覚悟はしていたはずなのに。
あの方はもうおいでにならない。
世界が、色を失う。
でも、こんなところで泣きたくはない。唇を噛んだ。

腕を取られるまで、男が居た事を忘れていた。

「揺池の官女は飛び切りの美女揃いと聞いていたが...
天蓬元帥が最後の寵(おもい)をかけただけのことはある」

むくつけき手が、顎を掴む。鳥肌が立った。

「我が物になれ。咎めは握り潰してやろう」

夢中で、身を捩って逃れた。

「触れるな.!」

あの方の腕が抱き、唇が触れ、息吹を享けた躰は、決して汚されてはならない。

「この身はあの方のものです、お斬りなさい」

自害は出来ない仙女の身、斬られれば、あの方のもとに行けるかもしれない。

男のこめかみに、筋が立った。

「どいつもこいつも、儂に従うよりは身を滅ぼすと申すか...!」


広場のような場所まで連れていかれ、二本の柱の立った粗末な壇に上らされた。
往来する人々に背を向け、広げさせられた腕を、漸く立てるだけの高さに括り付けられると、
練絹の上衣ごと、薄絹の單が引き剥かれる。

「今許しを請えば、まだ間に合うぞ」
湿った手が背を這う。おぞましさに、声も出ずただ首を揮る。

「やれ」
風を切る音、そして灼けつく衝撃が襲った。

「声も出さないとは見上げた性根だが、いつまでも保ちはせん。
死んだばかりの竜王の鞣(かわ)の鞭だ、よく撓う」

打ち下ろされる度、意識を揺すぶり起こす痛みの他には、何もかもが薄れていく。

(きれいですよ、さん)

あの方の声が、囁いているのは、この打撃の熱が起こす幻だろうか。
あの方が命を失われるまでの苦しみや痛みを思えば、これしきのことを耐えなくていかがしよう。
声を喉の奥に凍らせて、堪える。見苦しい姿を見せてはならない。

「その位にしときな」
「こ、これは...」

聞いたことがあるような声、そして、ふつりと打撃が止む。
その先は、ただ闇に閉ざされた。


*****

目が覚めたのは、薄明るい場所だった。
堅い寝台に、うつ伏せに寝かされていたようだ。

「...!」
身を起こそうとすると、息が止るほどの痛みが走り、腕が崩折れた。

「お嬢ちゃん、お目覚めかい」

「観世音菩薩様...」

「気の毒したな、西王母が戻るまで、俺も動けなかったからよ」

「辱のう(かたじけのう)ございます...王母様は、ご無事でしょうか?」

「ああ、あいつも揺池や兜率天宮にまでは手を出せねえからな。
だから王母が留守の隙にあんたにちょっかいかけたってわけさ。
天蓬元帥との関りは直には無かったってことにしとけば、揺池に戻れるぜ」

「...あの方をお慕いすることが、今ここでは罪なのでしたら、いかなるお咎めも、私には身の誇りでございます」

尊者はくつくつ笑って、私の頭を幼な児にするように撫でられた。

「まあ、あの野郎の言いなりにならずに五十鞭も食らった位だ、そうくるだろうと分ってたがな。
天蓬の縁者となれば、罪人に数えられるのは免れねえ。
あいつは、500年後にこの地上に転生して、散々苦労して罪劫を雪がされる(すすがされる)んだが、
あんた、それまで待てるか?」

「はい!」

「今俺たちが居るのは、地上の隠れ里みたいな処だ。裏には神通力のある湯が湧いている。
ここに迷い込んで来た人間や獣の傷を癒やすのがあんたの仕事になる。
背中の痛みも、その湯で治せるぜ」

「傷痕は、消えるのでございましょうか?」

「竜の皮鞭の傷は消せねえって、知ってるだろう?...消したくないんじゃねえの」

「地上の500年は、長うございます、あの方との縁(ゆかり)は何一つ、失いたくはございません、ただ」

「ん?」

「醜い痕があっては、天蓬様に厭われるのでしたら」

「馬鹿いってんじゃねえよ」

片目を瞑って、また頭を撫でられた。

「傷が勲章なのは、男だけじゃねえよ、あんたがどれだけあいつに惚れてるかって印だろ?」



山里の静けさにいだかれて過ぎた日々は安らかだった。
そして、遂にその日は来た。
傷つき、汚れ、姿かたちは変わっていても、ひとめで判った。

「まだ、貴方のお命はここでは尽きてはおりませぬ」

五百年でも、永遠の前には、須臾に過ぎない。



(完)


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泪様、長い間お待たせして申し訳ございませんでした!