「これなんですけど」

薄紙を、そっと披く。

掌に納まる程の、モノクロのスナップ写真。

店主の女性は、手袋をした指で注意深く、その写真をライトにかざした。

「大丈夫、これなら昨日撮ったようにお作りできますよ。カラーの着色も、できますが?」

「…私、この人に会ったこと、ないんで、髪や瞳の色、知らないんです」

「ああ、じゃ、セピア風に仕上げましょうか?こんな感じで」

差し出されたサンプルは、クラシックな映画のスチールを思わせるやわらかな仕上がりだった。

「ええ、それでお願いします」

「明日のこの時間には、ご用意しておきますから」

*               *               *              *


丁度、一週間前。

手紙を書いていて、判らない字が出て来たので、靴を磨いていた彼に訊いた。

「口で言うの難しいですね…僕の本棚に辞書があるから、持って来て見て下さい」

「じゃ、お借りします、ありがとう」

ぎっしり詰まった棚から、辞書を抜き出そうとして、ばさばさと何冊か、落としてしまった。

拾って戻そうとした拍子に、厚い本の間に、

白い薄紙に包まれたものが覗いているのが、眼に入った。

いけない。そう思いながら、指は勝手に動いていた。

卒業アルバムか何かから剥がしたらしい、角のすり切れたスナップ。

玄関の方で、ばたんと音がした。

慌てて包みなおし、元通りに本に挟んで、散らばったものを片付ける。

一瞬で、眼に灼きついてしまった、綺麗な笑顔。彼に、よく似ていた。

―あの女(ひと)だ。

*              *                 *              *


9月21日。二人とも出勤日だったけれど、私は早退して、大急ぎで買物をして家に帰った。

茄子のキャビア風ペーストに、メルバトースト。

じゃがいもとアンチョビのグラタン。

昨日作って冷蔵庫の奥に隠しておいた、三色ピーマンのマリネ。

南瓜と林檎とアーモンドのサラダ。

鶏の赤ワイン煮。

松の実ときのこのピラフ。

温かい栗のプディング。

彼の好きなバルボリチェッラを開けて、呼吸させておく。

とっておきのクロスをかけたテーブルに、

竜胆と吾亦紅と薄を飾りおえたところで、彼が帰ってきた。

「早かったんですね、さん…え?」

「お誕生日おめでとう、八戒さん」


「大変だったでしょう、こんなにたくさん、ご馳走作って…

どれも、美味しかったな。

このプディング、初めてです。手作りじゃないと味わえないですね、さん、ありがとう」

「よかった、お口に合って」

料理だけでなく、何でも手際のいい彼に手料理も気がひけたけれど、

レストランでは、今から出すプレゼントを渡す勇気が出るとは思えなかった。

…来年、この日に一緒にいられるとも思えない。だから精一杯のことが、したかった。

*              *                 *              *


私たちの間には、口約束も、何もなかった。

私の勤める図書館によく現れる彼と親しくなって、

時々、帰りに映画に行ったりすることもあった。

お互い、他に付き合ってくれる人もないような作品が好きだから。

彼にとっては、それだけの事だと、いつも自分に言い聞かせていた。

何か特別な存在だなんてうぬぼれたら最後、彼の笑顔も、優しい声も、

自分から遠ざかってしまうようで怖かった。


『アマデウス』のディレクターズ・カットの帰りだった。

今住んでいるアパートメントは、元々、学生時代からの親友と住んでいた。

古いけれど、ゆったりして場所も便利で、とても気に入っていた。

でもその頃、彼女は故郷に帰らなければならない事情が出来てしまい、

他のルームメイトもいきなりは見つからず、

一人では維持しきれない、引っ越すしかない、と

私は毎日、賃貸情報誌をめくってばかりいた。

「せめて春だったら、あんなにいい立地だし、独立した寝室があって家賃も手頃だし、

ルームメイトもすぐ見つかったろうって不動産屋さんも言うんですけど」

「僕、立候補しましょうか?」

「え?」

「ちゃんと費用も分担しますし、僕、家事も得意ですよ」

「…真面目に言ってるんですか?」

「真面目です」

周りがどう思うだろうとか、常識だとかは頭の圏外に飛んでいた。

ただ、こんな一生分の運が集まってしまったような嬉しいことは、

すぐ飛びつかないと、あっという間に翼が生まれて飛んでいって、

胸が弾けてしまう、としか思えなかった。

「よろしく、お願いします」

彼の方が、いくらかびっくりしたように、目を見張った。

やっぱり、冗談なんだ…恥ずかしくて、かっと、頬が燃えた瞬間。

「こちらこそよろしく」

と、彼は笑って、頭を下げた。

*              *                 *              *


文字通りのルームメイトでなくなったのは、ただ一度きり。

住み始めて3ヶ月経ったついこの間だった。

落雷が続いて、この辺りが大停電を起こした夜。

電池式の時計を床に落としてしまって、私はパニックに陥った。

暗闇が怖くて、動けない。床にうずくまって震えていた体を力強い腕が抱きしめてくれた。

「大丈夫です、さん。もうすぐ夜も明けます。僕がいますから」

「八戒さん…怖い、暗いの怖い」

私は泣きながら、彼の胸にしがみついてしまった。

柔らかい唇が涙を拭い、やがて唇に重なった。

キスしているのに漸く気付いた頃には、

甘い熱が恐怖を追い払い、体の力を奪ってしまった。

そっとボタンを外す彼の指の優しさ。

堅い胸にしみ込んでいるコロンの香り。

皮膚を仄かに撫でていく前髪の感触。

何を言っているのか聞き分けられない、低くやわらかな呟き。

…滲む汗に溶け合って、このまま彼の中に消えてしまいたかった。

暗闇が初めて、親しく身を包んでいると感じられたあの夜が明けてほしくなかった。

目を覚ましたとき、ベッドから引っ張り出したらしいシーツに包まれて、

私たちは床で抱き合っていた。

身じろぎした彼の腕の力が緩んだ隙に、

私はパジャマに手を伸ばし、そっと抜け出そうとしたけれど、

敏い彼はもちろん、しっかり目を覚ましてしまった。

さん」

「シャワー…先に…いいですか」

「…どうぞ」


熱い湯が壁を打つ音が、どれも「ドウシヨウ」と聞こえた。

責任だとか、起ったことを言い立てて、彼を縛ることだけはしたくない。

初めからそれしか考えられなかった。

恋人になったと錯覚したり、彼女気取りになるほど、欲張りじゃありません、と、

彼と、神様に伝えられれば、もう少しだけ、傍にいられるかもしれない。

彼の中に消えない、大切な女(ひと)の邪魔をしない存在でいる。

関係に名前をつけて、彼を縛ろうとしない。

今までの沢山の朝と同じ声で、同じように笑おう、

入れ替わりに彼がシャワーを浴びている間、朝食を作りながら、

私は深呼吸しては笑顔の練習をした。


さん、」

「八戒さん、目玉焼、返して焼きます?あ、停電直ったみたい。ビデオの時間は飛んじゃったけど」

リハーサルした台詞はすらすらと出た。

「いえ、返さないで…じゃ、僕、時計合わせときますよ」

一瞬、間があったけれど、彼も努めて普通の声で応えてくれた。

しばらくはこのままで、居させてくれるって、思っていいですか?

膝が震えそうだったけれど、私は何とか笑って、目玉焼のお皿を置いた。

*              *                 *              *


二杯目のコーヒーと一緒に、リボンをかけた包みを渡した。

「今、開けていいですか?」

「ええ、勿論」

彼が濃緑のリボンを解く間、心臓が、胸を破り出すような勢いで打っていた。

線描きの蔓薔薇を彫り込んだ燻銀の枠の中の、キャビネ判の写真が現れると、

彼の顔色は真っ白になり、…やがて、ゆっくりと血の色が上ってきた。

さん…これ…は、」

「ごめんなさい、勝手に持ち出して」

薄紙の包みも、そっと差し出す。

緊張の糸が張り詰めすぎて、ばらばらに切れたような感じで、

私は淡々と話す自分の声を他人のもののように聴いていた。

偶然、見つけてしまった写真のこと。

歯医者に通う道筋で見つけた、写真復元の看板。

写真を、プリントから焼いて、傷んでしまった記念や思い出の写真を復活させてくれる

その店に持っていって、ポートレートに作って貰ったこと。

アンティークショップで、ラファエロの聖母像のカードを入れてあった

その額を見つけて,思いついたこと。


あれから、彼が何か言いたげになる度、逃げてしまった。

別れを告げられるのが怖くて。

写真を持っていったのは、欲張りな癖に、そうでない振りをする自分を、

罰したかったのかもしれない。

彼の心の、一番大切な場所にいるこの女(ひと)の、

曇りない微笑が、どれだけ綺麗か、目に灼きつけて。


「とても、綺麗ですね、ありがとう、さん」

大好きな碧の瞳を、胸に刻み付けたいのに。

泣いている場合じゃないのに。

今日、一緒に過ごせたら、その思い出で生きていけるから、

逃げるのをやめようと、決めたのに。

潔く、私から、呼び水をしなければいけない。

そう思って、怒られるのを覚悟でしたのに、彼はまだ、優しく微笑っている。

なんて、言えばいいんだろう。どうして、時間は止められないんだろう。