愛する神の歌




「悟能せんせい」

小さな、ほんとうに小さなその声が、

どうして、甲高いざわめきの中で、俺の耳に届いたのか。




軒に紅灯が瞬きだす前の刹那。

昼が夜に時間を手渡して、その手が触れ合っている、

そんな刹那、

肩も触れ合わない程度に行き交う人々の、表情も定かでない、

それ位の薄暮の中。


白い顔は仄かに浮き上がり、

黒い眸は何の熱も残さずに俺の顔を通り過ぎた。

そのまま、まなざしは、宙に泳いで、

淡紅の唇が、やわらかく綻ぶ。

漂客の一人が、細い肩を捉えた。

骨が無いように引き寄せられ凭れかかる。

一目で判る程酔っている男は足をもつらせながら、

それでも、しどけない襟元から手を差し込んで、

何時の間にか現れた妓楼太郎(注:遊郭の客引き、下働き)が囁くのに

顎が外れんばかりに頷いている。


俺は二足で男共と彼女の間に割り込んだ。

「お前が言った値段の倍で。おっさん、失せな」

肩からずり落ちかけた浴衣をかき合せてやりながら、

俺は戸惑い顔の妓楼太郎を急かした。

店に登楼る(あがる)と今日一番のお客だと景気のいい声が次々浴びせられる。

型通りに次の間付きの部屋に、

駆けつけのお客に祝儀という銚子を届けた若い男(の)に、一枚掴ませた。


襖が閉まると、ぼんやり横座りになっていた彼女が

初めて、俺が居るのに気付いたような顔で振向く。

四つん這いになってー

唐突に、胡座をかいた俺の脚の間に跪き、ジッパーに手をかける。

「−おい!ナンだよいきなり!」

引き離して押さえつけると、初めて、焦点を結んだ眸が俺を見る。

…そして、叱られた3つ4つのガキそのまんまに、べそをかいた。

「ふぇ…えっ、…ひっく…」

俺の手を振り払い、握り拳を両目に当てて、

声を殺して…目玉が溶けてんじゃねえかって位

大粒の涙が、ぼろぼろ落ちる。


…女に泣かれると普通萎えんだけど…

…そういう場合じゃねえって!このバカ息子!

苦労してジッパーを上げると、おそるおそる、頭を撫でた。

拳の上から、僅かに上目が俺を見る。

「怒ったんじゃねーよ。…そーゆーことしなくてイイの。

イイ子だから、大人しくしてな?」

判ったのか、判らないのか、また、部屋の隅っこに行って

壁に向かって横座りになった。


番頭だというふた癖ほどありげなオヤジは、入るなり、いぶかしげに俺を見た。

「こういう処は、お初めてで?」

「な、訳ねーでしょ」

髪の先を指に巻きつけては離している、

彼女の方を顎でしゃくる。

「あんな花魁ってあるか?髪は結ってねぇ、化粧も無ぇ、

浴衣で、てのはまだいいにしても、見世に並ばねぇで、

ふらふら廊内(なか)を歩いて客引かせるって…

夜鷹じみた掟破りじゃねぇか」

「…お客さん、この街のお方じゃないようで」

「ああ、こっから1日のD−町だ」

あのクソ坊主の使いで、

ここの、R‐街の外れに住む道士とやらに手紙を届けさせられ、

返事が書きあがるまで泊まるはめになった。

と、なれば、独り寝することもねぇってことで、評判の遊郭に足を向けた訳だ。