愛する神の歌

6


細い手に、赤い箸を握らせる。

副えた手を離せばころげ落ちるだろう、力無い手の中で箸は揺れている。

「さ、今日はお浸しですよ」

摘み上げたほうれん草の葉を口に運ばれ、無表情な顔が微かに、横に背けられる。

「いい子だから、食べて下さい、。あなたの体のためなんですから…そんなに嫌なんですか」

口を開けようとしないに、根負けした八戒が、

卵焼きに箸を向けさせると、今度は素直に口に運んだ。


俺が起き出してくると、いつも見られるようになった光景。

だのにいつまでも慣れない。

八戒の声音がもたらす痛みに。

八戒が作る食事にはいつもほうれん草。

貧血が酷いとあの医者に言われたから。

スープや、すり潰して白身魚のソースにしたりすれば、

も嫌がらずに口にするが、好き嫌いを解消させなければ、と

サラダや炒め物、浸しものも3度に1度は食卓に上った。

少しずつ、色々なものを口にするようになって、の頬もふっくらと色づき始めた。

だが子供のように、ほうれん草やピーマンは嫌がる。


攫って来て、二日三日は、俺たちも一緒に、寺の一室に隠れていた。

野菜位しかおかずのない食卓で、この子は箸を取ろうとしなかった。

飯の茶碗だけに手を伸ばし、醤油をかけただけの飯を匙で口に詰め込んだ。

…あの女郎屋は、自分から何が欲しいとも言わないに、

それ位をあてがっていたのだろう。


月に二度、俺たちは夜陰に紛れて、あの女医の所にを連れて行った。

ぼんやりとスツールに座らせられ、胸を開けて診察を受けるときも、

は同じ部屋で後にいる俺たちが目に入ってもいない風だった。

それでも、同じ部屋に居ないと不安がるだろう、と医師はいうのだ。

どちらかというとその言葉は、俺たちを支えていたかも知れない。

「誰か」ではなく「俺たち」が傍にいると、どれだけ判っているか、

手応えのないこの娘と過ごす一日、一日の重さが、辛くないといえば、嘘になる。

「かなり、いい顔色になってきたわね。胸の雑音も無くなったし…よくやってるわ、八戒さん」

「ありがとうございます」

「そろそろ、専門家に診せても、いいかもしれない。私が紹介できる優秀な人が一人、いるけれど…」

「−女性ですか?」

「いえ、男性よ。あなたと同じ位の年頃」

「…そう、ですか…」


八戒の躊躇も、無理はない。

やりとりが耳に入っている様子もなく、スツールに下がっている房飾りをいじっているの様子は

もう俺には、痛々しい子供にしか見えない。

けれど…の、そして八戒の背負っているものなど関係ない男が見たら。


遊郭で初めて見た日、青白く窶れた顔に洗い髪でも、

…いや、むしろ、心ここにあらずという風情と儚げな姿は、強烈に情欲を揺さぶった。

力一杯抱きしめて、この瞳に自分だけを映させて、華奢なからだに、自分を刻印してやりたい。

「悟能先生」の一言で引き戻されなかったら、俺はきっと、を抱いてしまっただろう。

不幸な翳を帯びた女には弱い。

判っているからこそ避けて来た俺なりの免疫を、あの姿は、一気に突き崩した。

今、からだも娘らしい丸みを帯び、皮膚も艶を取り戻したが、

ごく偶に見せるようになった笑顔を、不用意に見た男がいたとしたら。



八戒がいるとき、俺はあまり同じ部屋にいないから、

八戒にもあの表情を見せているのか、はっきりとは知らないが…

昼間、八戒が買物に出るときなど、俺は一応起きて、を見ているように頼まれる。

今までのところ、はぼんやり座っているか、ソファでうとうとと眠っている位しかしない。

俺は俺で、雑誌か何かめくりながら、眼の端で彼女が外に出ていったりしないか見ているだけだ。

ごく偶に、俺に焦点のあった視線に気づく。

そんなとき、赤ん坊やほんのガキが、不意に見せるのと同じ、

突然降り注ぐ太陽のような笑みが光るのだ。

それを見ると俺は、言葉の見つからない感情に突き刺されて、息が詰まった。

柔かな花の棘が刺さるときの、むず痒さと、痛みと、熱っぽさ、とでもいうのか。

それがどんなに綺麗でも、そのからだで、そんな笑顔は、あってはならない。

世の中が恐ろしくて、自分を痛めつけるものばかりだ、と

知らないものだけが出来る、そんな表情(かお)は。


けれど、何も知らない男が見たら…まして、若い男なら、

医師の務めや、将来も放り出して、自分のものにせずにはいられないかもしれない。

があの街一帯に名を轟かせた遊女『揺琴』だったことも構わずに。

「あなたの心配はわかるわ。

世話をしているあなたたちが、彼を信じられないのに、

この娘を連れて行っても、も不安になるだけよ。

だから、あなたたちが、先に彼に会っていらっしゃい。

どうして、私が彼を推薦するのか、きっとわかるから」