愛する神の歌




さん」

穏やかな呼びかけに、はおずおずと目を上げた。

色あせたカーペットにぺたんと座っているの前に膝をついて、

彼は囁いた。

「悟能先生は、見つかった?」


八戒の肩に力が入った。

マジックミラーにくっつくように、八戒は二人の居る部屋を見ている。



温かいミルクを飲みこんで、マグを置くと、口の周りが真っ白だった。

「おひげがついてますよ 

小さなタオルで拭いてやる八戒の襟足が長くなってきている。

俺が拾った頃のように。

そして、笑顔も。

貼り付いたような、愛想のいい、温度のない笑み。

八戒は、彼女のことは思い出せずにいた。

『悟能』が姉と暮らしていたのは半年にもならない短い時間で、

隣村から時々来ていた位の子供までは目に入らなかったんだろう。


晴れた日には八戒は、を近くの野原に連れ出して、日光浴をさせた。

は手を曳かれるままにたどたどしく歩いて行く。

平らそうな所を選んで、毛布を広げ、彼女を座らせる。

細い手はぼんやりと、髪の先を弄るか、力なく脇に置かれたままだ。

底の無いような黒い瞳は、眩しい陽光の下でも、

あの薄暗い部屋の隅で見たのと同じだった。

カーテンを閉めた部屋で寝転がっていても、俺は二人の寂しい様をひしひしと感じる。

あの医師(せんせい)に貰った専門家の連絡先は、本棚の上に置かれたままだ。

沈みこんで行く八戒の心が、胸を圧し拉ぐ。

同じことなら、傍にいてやろう。


勢い良く玄関を開けると、逆光の中で人影が飛び退いた。

「…ビックリさせんな」

「こっちの台詞だってば」

悟空だった。

「三蔵から、これ、届けろって」

紐で閉じられた茶封筒。

多分新しく作った彼女の戸籍だろう。

「何か飲むか?」

「サンキュ」

コーラをごくごく飲み干すと、悟空はその辺りをなんとなく見まわした。

「あの子は?」

「今、ひなたぼっこさせてる」

「…顔、見ていいかな」

「ああ」

並べる肩の高さが、いつのまにか殆ど変らなくなっている。

顔の丸みも引き締まり、コイツも男になってるんだな、

と不思議な気がした。


「あ」

大きな樹の陰に、小さな白い姿があった。

八戒は樹に凭れ、目をつぶっている。

「大きい声出したりすんなよ」

「わかってる」

悟空はそっと、の横に近づき、毛布の端に膝を折って座った。

は振り向かない。

悟空は、傍らの黄色い花を摘むと、そっとの前に差し出した。

風が、ふわふわとした花びらをなぶり、の頬に触れる。

ゆっくりと、まるで方向を変えた微風に誘われたかのように、

は振り向き…花を、手に取った。

「それ、好き?」

悟空の低い声に、言葉はないけれど…悟空の顔を、見た。

曇りのない笑顔に誘われるかのように…

仄かな笑みが、浮かんだ。

俺は、さりげなく悟空の視界を遮るように、

八戒の横に座りこんだ。


「あっちにもっと咲いてる。見にいこ?」

空いた手を取られて、稚い足どりで歩いていく。

二人を午後の光が包む。

八戒の手が、俺の手を折れんばかりの力で握った。

「…落ち着け」

「笑って…ました」

「…ああ」

「あなた見たことあるんですか?」

「…ある」

「僕には…僕が、…」

に、お前が見せてるこわばった表情(かお)、知ってるか?)

−俺には、決して口に出来ない言葉。

「医師(せんせい)の言ってた人のトコ、行こう。な?八戒」

ここに立ち止まっていたら、俺たちのーそしての時間も、止ったままだ。

八戒は頷いた。微かだったけれど、確かに。