愛する神の歌
7
「さん」
穏やかな呼びかけに、はおずおずと目を上げた。
色あせたカーペットにぺたんと座っているの前に膝をついて、
彼は囁いた。
「悟能先生は、見つかった?」
八戒の肩に力が入った。
マジックミラーにくっつくように、八戒は二人の居る部屋を見ている。
温かいミルクを飲みこんで、マグを置くと、口の周りが真っ白だった。
「おひげがついてますよ 」
小さなタオルで拭いてやる八戒の襟足が長くなってきている。
俺が拾った頃のように。
そして、笑顔も。
貼り付いたような、愛想のいい、温度のない笑み。
八戒は、彼女のことは思い出せずにいた。
『悟能』が姉と暮らしていたのは半年にもならない短い時間で、
隣村から時々来ていた位の子供までは目に入らなかったんだろう。
晴れた日には八戒は、を近くの野原に連れ出して、日光浴をさせた。
は手を曳かれるままにたどたどしく歩いて行く。
平らそうな所を選んで、毛布を広げ、彼女を座らせる。
細い手はぼんやりと、髪の先を弄るか、力なく脇に置かれたままだ。
底の無いような黒い瞳は、眩しい陽光の下でも、
あの薄暗い部屋の隅で見たのと同じだった。
カーテンを閉めた部屋で寝転がっていても、俺は二人の寂しい様をひしひしと感じる。
あの医師(せんせい)に貰った専門家の連絡先は、本棚の上に置かれたままだ。
沈みこんで行く八戒の心が、胸を圧し拉ぐ。
同じことなら、傍にいてやろう。
勢い良く玄関を開けると、逆光の中で人影が飛び退いた。
「…ビックリさせんな」
「こっちの台詞だってば」
悟空だった。
「三蔵から、これ、届けろって」
紐で閉じられた茶封筒。
多分新しく作った彼女の戸籍だろう。
「何か飲むか?」
「サンキュ」
コーラをごくごく飲み干すと、悟空はその辺りをなんとなく見まわした。
「あの子は?」
「今、ひなたぼっこさせてる」
「…顔、見ていいかな」
「ああ」
並べる肩の高さが、いつのまにか殆ど変らなくなっている。
顔の丸みも引き締まり、コイツも男になってるんだな、
と不思議な気がした。
「あ」
大きな樹の陰に、小さな白い姿があった。
八戒は樹に凭れ、目をつぶっている。
「大きい声出したりすんなよ」
「わかってる」
悟空はそっと、の横に近づき、毛布の端に膝を折って座った。
は振り向かない。
悟空は、傍らの黄色い花を摘むと、そっとの前に差し出した。
風が、ふわふわとした花びらをなぶり、の頬に触れる。
ゆっくりと、まるで方向を変えた微風に誘われたかのように、
は振り向き…花を、手に取った。
「それ、好き?」
悟空の低い声に、言葉はないけれど…悟空の顔を、見た。
曇りのない笑顔に誘われるかのように…
仄かな笑みが、浮かんだ。
俺は、さりげなく悟空の視界を遮るように、
八戒の横に座りこんだ。
「あっちにもっと咲いてる。見にいこ?」
空いた手を取られて、稚い足どりで歩いていく。
二人を午後の光が包む。
八戒の手が、俺の手を折れんばかりの力で握った。
「…落ち着け」
「笑って…ました」
「…ああ」
「あなた見たことあるんですか?」
「…ある」
「僕には…僕が、…」
(に、お前が見せてるこわばった表情(かお)、知ってるか?)
−俺には、決して口に出来ない言葉。
「医師(せんせい)の言ってた人のトコ、行こう。な?八戒」
ここに立ち止まっていたら、俺たちのーそしての時間も、止ったままだ。
八戒は頷いた。微かだったけれど、確かに。