愛する神の歌

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あのテラピストのところに治療に通いはじめてから、

確かにには変化が表れて来た。

視線に力が入り、俺たちがじっと見ると、目を逸らす、といった反応が出て来た。

独りで遊んでいるときも、前はぼんやり座って手に持った(持たされた)ものを

気がなさそうにいじるのが精々だったのに、

ぬいぐるみを抱きしめたり、揺すったりすることもある。

俺たちに見られると、恥ずかしいのか、背を向けてしまうのだけれど。

それも、手応えのない無関心よりはずっと、人間らしい反応だ。

ただ、俺たちを見る刹那に走る、、窺うような、脅えたまなざしはいつも、胸を衝く。

…顔色を見る癖がついてしまっている子供は必ず、悲しいものを背負っている。

そして、そのことを、自分で知っているものだ。

…特に、そのまなざしは八戒を悩ませた。

その眸に遭うと、八戒の顔は反射的に笑みを作る。

…こわばった笑みを。

彼が言うように、本当のを、閉じこもった奥から引き出すには、

俺たちも、剥き出しの自分をぶつけなければならないとわかっていても。

八戒もまた、自分の殻を破れないジレンマに陥ち込んでいた。


今日、彼はあの部屋に色々置かれたものから、好きなものを取って使ってご覧、とに勧めた。

彼が、気配を敏感に感じ取ることは多分、感じているのだろうけれど、

自分を見ることが出来ないのは、も理解していた。

だからだろう。彼の顔を窺う様子は、顔色を見ていることを隠す気配もない。

そっと、棚や床に雑然と並んだ人形や、本や、玩具を見る眸が、

やがて一点に止った。

そっと、手を伸ばそうとして、は躊躇う。

「いいんですよ?気に入ったものは何でも使って」

しかし、は伸ばしかけた手を膝に重ね、首を振った。

「じゃあ、お話しようか。…いい子でないから、悟能先生に会えないって言ってましたね?

何か、さんはいけないことをしたのかな?思い出せる?」

はまた、さっき見た方に視線を彷徨わせ、殆ど聞こえないような声で

「おとなしくしてなかったの」と呟いた。

「そんなにいけないことだったのかな?」

「…でも…だから…」

は忙しく瞬きをして、詰まった言葉を捜すようにあちこち見回した。

「…だから、」

ともう一度、言ったものの、先が続かずに黙り込んでしまった。



「今日、さんは、何の玩具に一番興味を示しました?」

家に連れて帰ると、はいつも眠ってしまう。

今日は帰りの車の中で眠り込み、抱いて運ばなければならなかった。

やはり対面で、みっちりと話を引き出されるのは酷く疲れるのだろう。


だが俺たちには好都合だった。

彼が「見えない」部分を補うために、対話の後は電話で、隠し部屋から見た様子を伝えるのだが、

は聞いていない方がよかった。どれほど理解するのか、俺たちには測れないから。

話すのは主に八戒だったが、スピーカーホンにして俺にも聞かせる。

「最初、しばらく、羊のぬいぐるみを見ていましたが、

手に取ろうとしたのは、クレヨンでした」

「じゃあ、おうちで、クレヨンと紙を上げてみてくれませんか?

あそこでは緊張して手が出せなかったんでしょう。

そろそろ、そういう表現できるものを手にしてもいい頃ですし」

「先生…」

「はい?」

「家では、やっぱり、話し掛けてみても、殆ど言葉が出ません。

何故、先生だと引き出せるんでしょうか?」

「…僕が、ただ、聞きたいからでしょう」

「ただ…?」

「あくまで推測ですけれど…出始めた反応からして、さんの退行は擬似的なものです。

本来の彼女は、隠れているんです。

伺った、ご両親の事件、それから起きた、いろいろな心身の苦痛から心を守るために、

おそらく彼女は自分を分けてしまって、本当の自分は奥深く隠してしまったんです。

そうすれば、自分に起った、受け容れがたい様々なことは全部、『本当の自分』には触れていないから、

『本当の自分』を傷つけることはない。よくある自己防衛のパターンです。

その上、彼女が生きる手段として強要された行為は、虐待とほぼ同じです。

虐待された子供は、自分が何か悪いことをしたから罰せられていると思って、

その状態をなんとか合理化して是認してしまうんですよ。

本当は犠牲者なのだと理解したら壊れてしまいますから。

多くの辛い経験をそうやって凌いで来たとしても、

当然、『本当の自分』は、自分が何の罪を冒したかはっきりわからない。

そのストレスによる抑圧は、ますます心の壁を厚くします。

でも、それでは他人と正常な関係を築くことはできません。

出来る限り『本当の自分』への接触や干渉を避けるために、

自我の殻を冒さない範囲で可能な限り、

周囲の人間が見たいと思う通りに行動することが習慣化します。

彼女が切り売りされた場所で、客となった見知らぬ他人にも抵抗を示さなかったのはそういうことです。

ただ、そこで、破瓜させられたことは、

心身共に、隠した自我に対する脅威になるほど衝撃だったのでしょう。

だから、そういう行為をした人間は誰でも、

恐怖の対象になって彼女に刷り込まれてしまって、二度同じ客はとれなかった…

という説明が可能です。

僕は、さんの話を聞きたい、という意思だけで向かい合うことができます。

何を聞いても、結果を恐れる理由が僕にはありませんから。

だから彼女としては、自分で、本当の自分を外に曝すまいと思いながらも、

話すほかはないんです。相手の願望が自分を傷つけるものでないから。

これが進むと多重人格に走ることもよくありますが、それは免れたようですね。

…彼女には何か、支えになる記憶があったんだと思います。

僕はその記憶が鍵だと思うんです。それを引き出したい」

「…僕らは、彼女が本来の自分に戻ることを恐れているのでしょうか?」

「…きついことを言うので、覚悟して聞いて頂けますか?」

「…はい」

「八戒さんは、まださんを、何らかの責任か、贖罪の対象としてしか見ていないように僕には思えます」

受話器を握り締める八戒の指が白くなった。

さんが今の儘でいれば、あなたの庇護に頼らなければ生きていけません。

あなたはさんの現状に対する責任という名分で、

罪を償い続けて、自分の中で帳尻を合わせることができます。

あなたの願望をさんは感じ取っているから、殻から出ようとしないのかもしれません。

でも、それはさんにとって本当に望ましい状態でしょうか?」

「…おっしゃることは、当たっています。でも、どうしたらいいんですか?

僕以外の人間に委ねるとか、施設に預ければいいんですか?!」

悲鳴のような声。俺は思わず、八戒の肩を掴んで、受話器を取り上げた。

「今、ここであなたをこのセッションから切り離すべきではないと僕は思います」

彼の声は、ざらついた機械を通してなお、揺るぎない静かさを湛えていた。

さんの心が開ければ、あなたの心も開かれます。或いは順番は逆になるかもしれません。

他の誰でもなくあなたが、彼女を未来も人格もある存在だと認めて、

この世界にさんの居場所があるのだと伝えることができれば、

さんは立ち直れます。あなたも。

彼女が犠牲者であって、悪くないのだと。自分を含めて皆、彼女を受け容れるのだと

どうか、伝えて下さい。」