To be with you



もう、いないに決まってる。

待たせられることになんかない彼だから。

彼の仕事帰り、ほんの5分、通り道で時間を貰うだけ。

そういうつもりで約束したんだから。


からっぽの空間に胸を砕かれないように、頭は一生懸命自分をなだめているのに。

痛いほどの乾いた風の冷たさも、判らない位、の足は急いでしまう。



四六時中を、彼の色に塗りこめてしまうような、生娘(おぼこ)な恋をするとは思わなかった。


それでも…キイを打ちながら、ふと指が宙を彷徨うとき、

瞼の裏に血が噴き出すような激しい思いを抱えていても…

中学生のように、恋だけにかまけられない。

どうしても定時に出たかった今日も、

5時直前の電話から1時間も、デスクに縛り付けられた。

自分の人生も、生活も大事―

その思いの底に、彼を失って粉々になるのを恐れる気持があるのは判っている。


力ずくで自分を騙せたら、もっと楽なのに。

それでも、の足は、心臓を休ませようとはしない。


「何、デート?携帯で連絡しとけばいいじゃないですか」

今では当たり前のこと。

でも、彼の番号を登録していなかった。

度々の着信もすぐメモリから消してしまう。

野放図に彼を電波で絡めとってしまえると思ったら、止めど無くなりそうで。

まとわりついてしまったら、きっと彼には重すぎる…


ちゃんクールだよな」

黙って、微笑うしかできない。

言葉に包みきれない程の思いを、その都度胸に沈めながら、目を逸らすしか。

あの角を曲がれば、この熱も冷める。

心臓を弾けさせて、もうこんな苦しい思いから、逃れよう。



「う…そ、」

街灯に黒く浮かぶ、冬木立。

モノクロームの景色の中に、鮮やかな紅が。

立ち竦むを、黒いインバネスが抱きこんだ。


「あったけぇ」

冷え切ったウールの布地。

底冷えの強い風の中、じっと動かずに、1時間近くも待っていてくれた証拠。

は身をもぎ離し、ポケットに突っ込んだままの悟浄の両手を掴み出しだ。


ちゃん?」


「ごめん…ごめん、な、さい…」

の手から、バッグと小さな紙袋が落ちた。

性急にマフラーを解き、薄いニットの胸に手を押し当てる。

固い大きな手は、火照った肌もちりけだつ程の冷たさだ。

マフラーとコートの前で覆った上から、必死でこする。

「−サンキュ」

熱が冷めていくの胸と、血が通いだした悟浄の手の温度がシンクロしてくると、

悟浄はそっと手を引き出し、屈んでバッグと紙袋を拾った。


柔かな唇に、仄かに愁わしげな微笑を纏った顔しか、知らなかった。

息を弾ませて茫然と立っていたとき。

泣き出す寸前のくしゃくしゃな顔で、手を掴んだとき。

抑えていたいとおしさが、溢れ出した。


規則正しく速く刻む彼女の鼓動が伝えた熱を…信じてもいいのだろうか。

バッグを受け取った彼女は、目を合わせないまま、

紙袋に手を入れ、小さな包みを取り出した。

「どうぞ…」

「くれんの?」

「じゃ、私これで…」


「それはないっしょ、ちゃん」


踵を返そうとした体は易々とまた抱き込まれた。

再び胸に押し当てられた手は、もう熱い程だ。

「…こんなことされたら、熱くなり過ぎちまったよ?…責任は?」

ふくらみを柔らかく包まれる。

脚を割って押しつけられた熱に、頬に上る血が暴れまわる。

「−な?」

濡れた紅い瞳に、逆らえる訳がなかった。



モノが少ない部屋の中で、でんと目立っているベッドは黒の寝具で覆われていた。

リボンを解いた函が差出される。

「食べさせて?」

ひとひら摘んで、口に運ぶと、啄んだ途端に手を引かれる。

ほろ苦く甘い味が、ざらつく舌の感触と共に侵入ってくる。

「今日のちゃんの味だな」

組み敷いた背中に広がる濡羽色の髪は、黒いシーツの上でなお、耀く。

「…なんか、言って?」

捕まえたと思った次の瞬間、ひらりと指をすり抜けていく寂しげな横顔。

唇が微かに、動いたが、紡いだ言葉は吐息に溶けて聞こえない。

「俺を見てよ」

顎を捉えて、瞳を合わせる。


隔てるもののない夜に、なぜ、この子はそんな、迷い子のような瞳をするのだろう。

まっすぐに、俺を通り過ぎて、どこを見てる?

華奢な脚を抱え上げ、性急に動き出す悟浄の顔は、昏い思いに歪んでいる。


白い頬に、一筋跡を引いた涙を、指先で拭って、溜息を煙に紛らす。

(好きだって、言わせてよ、。俺のモノって。離したくないって)

最後のひとひらは、苦さだけが残った。




Fin.



弊サイト開設前、最も敬愛するマスター様に捧げたバレンタイン夢です。
その方の作品にインバネスを着た悟浄が出てきたのにちなんで、着せたのも懐かしい。