「姐さん、…ちょっと!なあ!」
姐さんは困ったように、私を見返った。
「ちゃん、悪いけど、行ってやってくれない?」
「はい」
お盆をお勝手に戻し、とんとん、狭い階段を上がる。
「…あれ?ちゃん」
悟浄兄さんは、姐さんの鏡台の前に座り込んだ儘、
鏡の中の私に目を留めた。
「姐さん、見番さんとお話していて手が離せないから。また温習会のお話」
「ああ、それで、音がしねぇのか」
昼から、私は姐さんに温習会のおさらいを看て貰っていた。
そこにひょっこり、見番さんが見えた。
刷り物の並びなんて、誰も気にしやしないのに、
見番さんが、何かとかこつけて姐さんと話しに来たがる様子は、
私のような小娘から見てもなんだか、可愛らしい。
そんな風に、姐さんに惚れる男(ひと)はそこら中に居るのに、
いつのまにか、この座敷に住み着いているのは、この男(ひと)。
…腹に晒を巻いたきりの肌脱ぎで、
真紅い髪を捲き上げ、鋏を手に、新聞紙を広げた上に胡座をかいている。
「悪ィんだけど、コレ、持っててくんない?」
兄さんは膝の上の手鏡に顎をしゃくった。
私は目を伏せて、それを拾い上げた。
「で、こっちに映るように持ってて」
姐さんに、妹芸者として可愛がって貰っている手前、
情人(いいひと)のこの男(ひと)を兄さんと呼んではいるが、
私はどうも、この男(ひと)が苦手。
一緒にいると…そういえば、姐さん抜きで二人で居るの、初めてだけど…
どうも落ち着かないんだもの。
兄さんは、私が掲げている合わせ鏡を見ながら、
器用に後の毛先を揃えた。
「助かったぜ、ちゃん。切り出して見たら、手が一本足らなくってよ」
鏡の中で、目が合うと、笑いかけられる。
どきんと胸が騒いだ。でも、私だって芸者の面目がある。
お座敷用の笑みを返して、手鏡を置きかけた手が、掴まれた。
「いつも思ってたんだけど、可愛い手だよなあ」
…全く。
私はにっこりと、掌を返し、彼の手の横を思いっきり抓った。
苦笑して離れる手。
袂にかかった、紅い切り屑を払い、茶の間に下りる。
見番さんは、もう帰っていた。
「じゃあ、続き、しましょうか」
すらりと起つ姐さんの姿は女の私だって惚れ惚れする。
だのに、あの男(ひと)ったら。
「言わず語らぬ我が心 乱し髪の乱るるも
つれないは ただ 移り気な どうでも男は悪性者…」
ふと、姐さんの三味線が停まる。
「姐さん?」
「ちゃん」
調子を外しただろうか。唄の文句に気が入り過ぎたかもしれない。
でも姐さんの微笑は、…牡丹のように艶麗だった。
「悪い男の味って、癖になるのよ」
Fin.
艶麗なイラストをMindAtlasのkyoco様におねだりして頂きました。
日記にあったこの絵を見た途端、熟成中の「二階座敷悟浄」のエピソードとしてこの「髪切り悟浄」が湧きました。
自分が全然絵が描けない(画像全般)ので、絵にはとてもinspireされます。
自分でも絵描きさんをinspireするような文が書けたらいいなあ。