42 メモリーカード
「おや、それなら初対面の僕の胸倉いきなり掴んだ貴方だって
褒められた態度じゃないと思いません?」
にこやかに声色も変えずに返すところは
一見、悟浄よりうわてなようで、本人もその気で喋っているのがありありと判る。
だが質問返しで相手を突いて、自分への攻撃の矛先を躱すやり方は、五十歩百歩だ。
八戒の白い横顔と、バックミラーに映る悟浄の吊りあがった眼の間に、
触れると焦げそうな高圧電流が走っている。
比沙子は指先が冷たくなってくるのを感じた。
蓮実も何も言えず、青い顔をしている。
ずきずきする頭を絞って、この場を治める言葉を探しても、
何一つ思いつかなくて、比沙子は縋るように助手席の三蔵に目をやった。
三蔵は目をつぶって無視を決め込んでいるようだ。
店に着くまではそれしかないのかも知れない。
着いたらどうかなる保障もないけれど、
少なくとも人目があればマシな態度になると期待するしかない。
赤信号で、唐突にまた八戒が言い募りだした。
「…大体、兄さんの方からしか話聞いてなくて
一方的に僕を悪者にしてるんだってフェアじゃないでしょ」
「あんたら兄弟が昔どうだったかは確かに俺は関係ねえさ。
だけどな!さっきはあそこでのあんたの振舞に怒ったんだよ、
捲簾さんと天蓬さんの間かき回して、
面白がってるみてぇな、性質(たち)悪ィ、胸糞悪ィことばっか言っ」
「悟浄!」
蓮実が鋭く、だが低い声で遮った。
「大きい声出さないで」
「あっ…」
悟浄が我に返り、蓮実が庇うように腕を回している比沙子に済まなそうな眼を向けた。
比沙子は何とか口の端を上げて見せる。
「信号変わったぞ」
三蔵の平坦な声が、何故か皆の詰めていた呼吸を緩めるような効果があった。
怒っていた悟浄の肩が下がり、慎重に運転しだす。
「…すいません、大丈夫ですか」
八戒が、気遣わしげに二人を見た。
初めて、間の悪さを認めた気弱な色が声に滲んでいた。
「いえ…ちょっと大きい声、苦手なだけで」
比沙子は目を床に落としたまま、呟く。
幼児虐待の後遺症とよく間違えられるけれど、親や家族が直接、痛めつけたわけではない。
比沙子の育った家は、個性が強すぎて神経過敏な両親も、
同居していた祖父母も仲が悪く、
子供の前も構わずに衝突を繰り返し、尖った声が絶えなかった。
飛び出したら帰って来れなくなりそうで、
逃げ出すこともできず、ただ耳を塞いで震えていた時間が長すぎて、
比沙子は、「自分以外の人間が」「大声で言い合う」状況には耐えられない。
自分が怒鳴られるのは普通以上に堪えはしないのに、
そういう場面では手足が冷たくなり、頭が割れるように痛んで、酷いときは倒れた。
「着いたわ。あんたら先に降りて。俺あっちで停めてくるから」
たくさんの植木鉢で縁取られた入口からは、いい匂いと賑やかな声が漂って来ている。
主に若い女性やカップルで、店内はみっしり埋まっていて、オープンテラスの席しかもう、空いてなかった。
柱や軒下からスポットライトの当たる、歩道に面した席は、
薄暗い中にテーブルの一角や、席に就いている者の顔を浮き上がらせて、妙にステージめいている。
「うーん昼だったら絶好のロケーションなんですけどねえ」
八戒は降りるなり、入口や看板を続けざまに携帯で撮った。
「この灯りじゃお料理の色もあんまり見えないだろうな」
「写真好きなんですか」
蓮実は思わず訊いた。
「カメラ付携帯にしてから、撮るようになりました。これ2メガピクセル撮れるんです。
いつもSDメモリーカード持ち歩いてるんですよ、
すぐデータフォルダ、一杯になっちゃうんで。
ブログにアップすると評判いいんです」
玩具を自慢する子供のような笑顔を向けられて、
蓮実はカロリー不足でふらふらの頭がさらに混乱してきた。
(この人、ほんとに天ちゃんが言ってたみたいなことするのかな?
…でも、さっきの天ちゃんは絶対嘘なんか言ってない。
それに、この人は自分の表情(かお)が、あたしの眼にどう映ってるか、自分で承知してるって気がする)
蓮実の眼は正直に疑いを浮かべていたらしい。
八戒の笑顔の温度が下がり、蓮実はどぎまぎして目を泳がせた。
店員が、テーブルの用意が出来ました、と呼びに来て、5人はトレイを手にショーケースの前に進んだ。
「そのマカロニサラダと、…それ、何の肉だ?」
「仔牛のミラノ風カツレツでございます」
「じゃ、それと、そっちのピラフみたいなの」
「カリーピラフでございますね。ではこの二品は後ほどお席までお持ちいたしますのでこちらの番号札をどうぞ」
「ブルーベリーベーグルをトーストして、クリームチーズと蜂蜜つけて下さい。
それとトマトサラダ」
「チャコ、もう少し食べなよ。スープどう?」
「足りなかったらまた追加するから」
振り返った頬の線は、明らかに先月より削げている。
(もう、どうしていつも、そんなに自分辛くする男ばっかりひっかかるかなあ!)
「ラザニアと、ビーンサラダと、タコのマリネ、茄子のファルシーと、南瓜スープ、ハムチーズクロワッサン」
その分まで自分はやけ食いしてやれ、と蓮実は矢継ぎ早に注文した。
「お前盆に乗り切らねーだろ」
「うるさいな、半分はテーブル持ってくるやつだからいいの。
ここは大盛りないの覚えてる?」
「今回はパスタ頼んでねーよ」
前回、記念撮影の仕事でこの町にきたとき、比沙子の職場に近いここで落ち合って昼食にした。
女の子向けの盛り付けが物足りない気がした悟浄は
「カルボナーラ、大盛りで!」と言って若い店員に笑われた。
たまたま店頭に出てきていたオーナーシェフもげらげら笑いながら、
同じ値段で大盛りにしてくれたのだが、
比沙子と蓮実には恥をかいたとデザートを奢らされたのだ。
あのときは比沙子も、もっと明るい顔をしていた。
蓮実と悟浄は暗黙の了解のうちにため息をついて会計を済ませ、テーブルに盆を置いた。
043 遠浅
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