Second Best
花が、ふわっと開いた。
自分の顔と同じ位、知っていた筈の顔が、
薄青く暮れなずむ街の人の流れの中に、
突然、浮かび上がって眼に飛び込んだ。
「これ、ホンモノの花?」
蝋のようにすきとおって、縁はひらひらと絹のようにうねる、
仄かな色のはなびらの重なり。
が足を止めて眺めている後ろから、悟浄も覗き込んだ。
「ラナンキュラスっていうのよ。ほんもの。アネモネの仲間」
「へえ…、あ、おじさん、これ、ちょーだい」
「はい、何本差し上げましょう」
「全部」
無造作にフィルムに包まれた12本を片手に提げ、
もう片方での手を取る。
「土産なんもないから、代りにコレ」
「お土産って…」
「ちゃんちにさ」
「え…?」
何度か送っていったマンションの場所はもう頭に入っていたから、
が断る理由を考え付く前にと、足早に歩く。
「待ってよ、悟浄ったら」
(…やっぱ、駄目?)
軽い笑顔を作って振り向くと、
いくらか困ったような微笑を片頬に浮かべたが、
横のフードマーケットを指差していた。
「何にもないから、ワインと材料、買って行こう?」
柔かな色調でまとめられた部屋に、ラナンキュラスはよく似合った。
の白い手が、瑞々しいはなびらを恭しく掬い上げる。
「こんなに沢山飾るの初めてよ。嬉しい」
包み込むようなその手つきが、
隅々まで大切に整えられた優しい暮しを思わせて、
悟浄の胸を切なくさせた。
俺はを壊さないだろうか。
「こっち、来て」
ソファの上で抱きしめて、
そのまま動かずに、ただ、いつまでも。
そうしていれば時間を動かさずに済むかのように。
鮮やか過ぎて昨日のような、あの日は、そういえば、もう何ヶ月も前だった。
会いたいけれど、それ以外に理由が思いつかない。
は自分と会いたいか判らない。
仕事は終わっただろうか、と逡巡して、
次にはもう眠っていないか、遠慮して。
メールだけはこまめに交したけれど、
いつも優しく受け流す返信は、悟浄を前にも後ろにも進ませない。
会えるときも、
言いたいことの栓を抜いてしまったら、
とめどなく自分を、彼女を押し流す奔流になるのが怖くて、
軽口しか口に上せられない。
笑顔が途切れて、愁いを帯びた横顔の時が増える。
笑顔も、どこか青みがかった翳りがいつもまつわって。
皮膚を擦り合わせて、唇を重ねて、
それでうやむやにしてしまいたくなかった。
きちんと言葉にしたい思いは、溢れてこぼれて、言葉に結べない。
それ位大切で、それほどもどかしかった。
今、目の前を通り過ぎていったのは…
あの薄いろの花が開いたときそっくりな、
無邪気に晴れ晴れと笑う顔。
あんなによく知っている顔。
だけど見たことのない顔。
その夜に、呼び出した。
見上げた瞳が、公園の街灯を反射する。
昼間の笑顔の名残が残っているような、愁いを払った顔。
「ね、悟浄、キスしてくれない?」
口紅のついてないあどけない唇が、返事を待たずに、重なる。
誘いこむ舌は熱く、痺れるような感情は色を失っている。
喜びなのか、悲しみなのか。
折れる程強く抱きしめた。
「…ありがと」
柔らかく胸を押されて、意思と関係なく、腕は彼女を解放する。
「これで思い残すことない」
「…何、それ?」
「私、結婚するんだ」
「…昼間の男?」
「うん。悟浄が居たの、知ってた」
凭れていたジャングルジムを離れ、彼女は、
踊るような足取りで、出口に向かっていく。
「…幸せになんなよ。でねーと承知しねーから」
「うん」
振り向かずに手を振って、はマンションに駆け込んだ。
ドアにもたれて、自分を抱きしめても、もう悟浄の温もりは消えてしまった。
一番好きな人や、一番欲しいものは、大切過ぎて、
相応しいと思えない自分が、いつも脅えてしまって、
壊すのが怖くて、触れることも、欲しがることも、やがて重たくなりすぎた。
どうやったら、離さずにいられたんだろう。
あんなに、胸を焦がす恋は二度とない。
けれどそれは幸せとは違う、烈しすぎる何かだった。
幸せになれなくても、一緒にいたかったけれど…
どこかで、なにかが掛け違ってしまって、取り戻せなかった。
だから、せめて、幸せになろう。
セカンドベストだけれど、私が私のままで、包んでくれるひとと。
Fin.