愛する神の歌
13
「いいえ。殺したって何ももとには戻りませんよ、さん」
彼の声はふわりと俺たちの間を漂った。
は一瞬、笑顔になった。
あの、知恵のつく前の赤ん坊のような笑み。
なぜか、俺は冷やりとしたものを覚えた。崖っぷちにいるような危うさを。
「うん…ほんとじゃない、もん」
また、瞳は遠く、ぼんやりとした色に変わっている。
空いた指先は、髪の先をいじり始めた。
「いいえ。さん、本当はわかっているでしょう?
全部、本当に起ったことです。
それに、今まであったことが夢だったら、
今、あなたが居るところだってほんとうのものじゃないかもしれませんよ?」
全く変わらぬ柔らかい声音。だが容赦ない言葉。
俺は、やめてくれ、と叫びたくなるのを懸命に堪えた。
彼はを、また、逃げ込もうとしている繭から引き戻そうとしているのだ。
の顔が、強張る。八戒の手を振りもぎって、自分の体を抱きしめ、震えはじめた。
八戒は、の背に触れようとして躊躇い、握りしめた手を膝に置いて、
を見つめた。
彼は、ゆっくり言葉を継いだ。
「辛かったでしょう、でもそれはあなたが悪かったから起ったことじゃない。
今、あなたに優しい人たちが大切にしてくれている生活は現実(ほんとう)のことです。
さんはもう、自分に起きているのは夢だと思わなくても、大丈夫。
もやをかけて、押し込めていたことを、話してしまったら、
もう、それは終わったことにしてしまえます。
でもほんとうなのか夢なのか、ぼんやりさせたままだと、
怖さや悲しさはどんどん増えていって、あなたを押しつぶしてしまいます。
悟浄さんや、八戒さんも居てくれるから、頑張れますね?」
は、俺を見上げた。
「悟浄、きたのも、ほんとだった?」
「ああ。会ったよ、前にがいたとこで」
紅い布団。金襴の座布団や蒔絵の煙草盆で飾り立てられていても、
薄汚さが沈んだ部屋。
口にしない女たちの悲しさがこびりついた部屋。
「でも、悟浄…しなかった」
大きな瞳が見開かれ、浮かんでいる痛みが俺の体にも食い込むようだった。
「むらに…くろいきもののおとこのひと、きて…つれてかれたの…いかなきゃいけないって、
もう、ひきうけるひと、いないからって…みせに、つれてかれて、
あかいきもの、きせられて、いろんなもの、かおに…つけられて、
よるになったら…ひと、いっぱいいるへやで…
て…つかまれて…あつくて、けむくて、いやなにおいで」
はしゃくりあげたが、瞳は乾いたままで、喉が笛のように、鳴った。
「つぎのへや…そのひと…うえにのって…いたくて…にげようとしたら…
ぶたれて…かお、からだのなかも、いたくて、ないて…
あせ、いっぱいおちてきて…おもくて…
くるしくて…こわかった、いきができなくなりそうで、めのなか、まっかで、まっくら、なって」
八戒が、たまらないように、震える肩に手を廻した。
はびくっとしたが、そのまま、体を預けて、苦しげな息をついた。
「あさ…なったら、いなくて…でもからだじゅう、あたまも、いたくて。
ゆうがた、おふろ、いれられて、また、そのひとのところ、つれてかれた…
いたいの、こわいの、また、って…おもって…あたま、われそうにいたくて…
なにも、わからなくなって…いきのしかた、わからないみたい、なって」
二度目の客には、癲癇のような反応を示した、という話は、
恐怖から来る拒否反応だったのだ。
まだ綻びもしないうちに、無惨に散らされたなりの防衛手段。
「悟浄、しなかった。こわくないひと、ほかにもいた。
いたくないけど、からだ、ばらばらになるみたいに、あつくて、ふるえて、
へんになることあって…おかしくなっちゃうって、こわかった」
涙が、一筋、頬を伝う。
「ごのうせんせい、おきょうしつにいれてくれたひのつぎのひから、
わるいゆめ、みてるんだって、ほんとうはなんにもおこってなくて、
め、さませばとうさん…かあさん、みんないて、
こわいこと、なにもなくいられるって…
おもいこまないと…いられなかったの。
ほんとは…ほんとは、なにもおこってないっておもうほうが
…ゆめだって、ずっと、しってた。
ごのうせんせいは、わたしがよりかかってた、…ゆめでしかなくって…
たすけてくれるはずないって。
わたし、どこか.…しらない、わたしのこと…おぼえてない。
でも、ゆめ、みてるほうが…らくだった、あさがきて、またよる、くるのが
すこしこわくなくなったから、…ゆめのなか、にげてたの」
は、身をよじり、八戒を見つめた。涙が次々に、零れ落ちた。
「あそこから…つれてこられて…だれも…こわいことしなくて…
しずかで…これがほんとうって、おもっていいのか、
べつのゆめみてて、さめなきゃいけないのか、
わかんなくて…こわくて…八戒が、くるしそうに、わたし、みるのが…いたいみたいで、
いていいのか、なんで、やさしくしてもらえるの、…わかんなくて…
…いて、いいの?」
「居てほしい、です。が望む限り。」
「…どうして?」
「連れて来たのは、僕が罪滅ぼしをしたかったから。
でも、今は…」
八戒は、そっと、を抱き寄せ、肩に頭を預けさせた。
「が、好きだから。
が、大好きだから、傍にいてほしいんです。
は、僕を、昔の悪い夢、独りで歪めていた思い出から、
やっと、本当に、引っ張り出してくれた。
が笑ってくれたら、僕も本当に笑えると思うから」
の薄い背が震え、烈しく揺れた。
「わらい、たい。で、も…」
「声を殺さなくていいんです、さん。
泣きたいときは泣いていいんですよ」
彼の声が堰を切ったように、は声を上げて泣いた。
積もり続けたものを絞りつくすように、長い長い間。