007 毀れた弓

乾海落語・野ざらし 其の参



其参 篝火

吉原の大退けから一刻も経つと、乾の住む門跡裏も静けさに浸された。

隙間風に、ほろほろと揺れる行灯の灯りに、黄表紙の文字が霞んで来た、丁度その時。
腰障子にうっすらと人影が浮かび上がった。

「やっと、ご到来か」
乾は土間に駆け下りて、心張りを外した。

さっと外に流れた灯りに浮かび上がって、目を射たのは、切れ上がった漆黒の眸と、ふっくらと赤い唇。

「かかる深更に参上仕り、ご無礼の段は重々許されよ」

深々と下げた頭から漏れる、低い、掠れた声。

「先刻、貴殿の供養に与り、長きに亘り中有に彷徨いし我が魂魄も処を得し厚恩、誠に有難き次第、
礼を申さねば拙者、成仏もしかね…」

「あの、君…失礼なこと訊くけど、…男の子、なの?男の子の格好して敵を誤魔化してたりっていうんじゃ…うわっ、ちょっと!」

少年の眼が光り、切られた刀の鯉口が灯りに煌いた。

「…拙者が敵を諜略する身と見破られたからには、恩人と言えども、御家の為には…!」

「おっ、御家って君もうこの世の人じゃないんでしょ!」

「武士たるもの、生死如きでご奉公を了えるものではない!」

「うっわ、ちょ、ちょっと」

少年の長い腕から繰り出される刃風は鋭く、狭い土間ではあっという間に追い詰められかねない。
乾は横様の刃をかいくぐり、路地に逃げた。

「だから君、ちょっと人の話聞いてって!」
「問答無用!観念致せ!」
「うるさいよ君たち!」
「お、おい不二?」

からりっと、隣の障子が開く。
鮮やかな宝尽くしの縮緬が閃き、淡紅いろのふりから伸べられた白い手が、少年の手首を掴んだ。

「邪魔立てす…あ!」
「…駄目じゃないか。君、お礼が言いたくて来たんでしょ?」
「不二殿…何ゆえ此処に?」
「僕は隣に用があってね。この人は、君が誰かも、主家がどこの誰かも知らないし、関りも無いんだ」

白い手にそっと押され、少年の刀は鞘に納まった。
「…」乾を振り向き、開きかけた唇が、また結ばれる。
「じゃ、後は二人で話せるね」
頷いた少年に微笑みかけ、振袖の姿は隣家の戸口に凭れた。
その奥に佇む、少し襟元が崩れた手塚の隠居は、乾の視線にばつが悪そうに目を伏せる。

丑三つの鐘が、遠くでぼうん、と響いた。

「…かかる深更に何を騒いでおるか、たるんどる!」
向かいの戸障子が、音高く引き開けられた。
いや、あんたのがよっぽど煩いけど…と思いつつ、乾は一応頭を下げた。
「すいません真田さん、取り込みがありまして、もう収まりましたのでご堪忍下さい」

真田は手にした灯篭を掲げ、不審げに見回した。
「奇怪な…鍔鳴りが聞こえ殺気が伝わって参ったが、貴殿らは寸鉄すら帯びて居らぬ」
「え?」
手塚の家の戸口に立つ不二の振袖姿も、乾と真田の間に立つ少年の姿も、真田の眼に入っていないらしい。
乾と目が合った不二は可笑しそうに口元を緩め、袂を翻して戸を閉めた。

「…拙者、夢でも見ておったか…御免」
ぴしゃんと戸障子が閉まる。
「じゃ、俺たちも中で話そうか」
少年は黙って随いて上がってきた。自分の麻裏草履ばかりでなく、乾の駒下駄まで揃えて。

*****

番茶を淹れ、座布団を勧めると、少年は躊躇いながら大刀を傍に下ろして端座した。

「熱いから気をつけて」
「かたじけない」
「君のこと、差し支えない範囲でいいから教えて欲しいんだ。…答えたくないことはそう言ってくれればいい。
ここ、狭いから刀抜いても壁か天井に刺さっちまうし」
湯気の向こうで、少年は顔を赤らめた。
「拙者は気短で…先ほどは相すまぬ。
見ず知らずの拙者をご供養頂いた貴殿が我が名をお訊ねあるは道理であるに」
湯呑みを置いた手がきっちりと突かれた。
「海堂薫と申す」
「ご丁寧に恐れ入ります。俺は乾貞治。…あのう、君が生まれた年って、聞いてもいいのかな」
「生年?元亀(げんき)二年、皐月でござる」
「げんき...えーと、…元(もと)に亀(かめ)のげんき?」
「然り」
机の奥に散らばった巻物を跳ね飛ばして、目当てのものを引っ張り出すと、海堂の前に広げる。
「君が生まれた元亀がここ。えーと、姉川の戦いがあった頃だから…海堂君が生きてた頃は、織田家の天下か。で、今は」
乾の指先を追っていた海堂の視線が、困惑しきった色になった。
「元治二年。…ほぼ、300年経ってる」

(元亀:1570〜73年、元治:1864〜65年)

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