46 名前 (後)



「命拾い?」

八戒の眸が大きくなる。

「それって一体...あ、すいません、立ち入ったこと」

「訊きてぇんなら、話すぜ」

「...伺いたいです」

「俺は捨て子だった」

(何で、今日初めて会った相手に、こんな事喋り出してる?)

三蔵の頭の中で、他人事のように呆れる声がする。
次々メロドラマに揉まれた一日の疲れ、満腹感、風呂上りの火照りとビールの酔い...
口を緩めているのはどれともつかず、その全てでもあるように思えた。


「俺を拾ってくれたのは、書家の人で、皆、お師匠って呼んでたから、俺もそう呼んでた」


「あの人」の温顔が浮かぶ。
怒った顔はみたことが無い。真面目な顔すらあまり思い出せない。その位、いつも笑みが浮かんでいた。
困ったり悲しんだりしていた時さえ。

「お師匠の家の近くには湧水があって、お師匠は朝起きるとまず、その水を汲みに行ってた。
墨を磨るのに使うんだが、名水百選にも選ばれたような水なんで、朝9時頃からはもう行列なんだ」


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皮膚にぴりぴりと刺さるような朝だったという。
お師匠は常の如く、湧水の傍にある地蔵堂の前で足を止めて一揖(いちゆう)した。

その時、石造りの地蔵菩薩の傍らに、仄かに光るものが目に留まり、
花入れや色あせた千羽鶴をかきわけて廻り込んで見ると、
もう泣き声を立てられないほど衰弱した赤子が居た。

懐に入れて連れ帰り、妻と2人して手当てして命をとりとめたものの、
誰が母親で、どうしてそこに捨てられたかは皆目判らないままだった。

隣の市に大きな港があり、商船や、時には空母まで寄港する。
そこに寄った外国人の落し胤を、母親が育てかねたのだろうと思われた。
この髪や目の色では、養子斡旋も難しい、と引き取りに来た施設の人間が心配していると、

(これもご縁ですから、うちの子にしましょう)

お師匠夫婦は、あっさりと赤子を養子にしてしまった。

その大きな古い家には、上は20代半ばから下は小学生まで、多いときは10何人もの『子供』が居た。
書道の内弟子、事情があって親から離された子、近所の不登校児。

書道教室の生徒を親の病気の間預かったり、家出してきた少年少女を泊めたりするうちに、
お師匠の所で感化されると、難しい子供も素直になると評判になりだし、
家庭裁判所や児童相談所からも頼まれて、保護司、里親といった資格で子供を置くようになった。
書道教室には大人から子供までやってくるし、とにかく、人の出入りは賑やかだった。

「家に居る中では俺が一番チビだったんで皆、よく面倒みてくれた」

幼稚園に入って初めて、髪や目の色をからかわれ出した。
縁側に転がって、こんな髪は嫌だ、行かない、とごねた。

(じゃあ今日は私と散歩に行きましょうか)

差し出された手に、吸い寄せられる。
物心ついてから、2人だけで歩いたのはそのときが初めてだった。

地蔵堂の前で、お師匠の手が両手を包んで、合せてくれた。

「あなたとは、ここで会ったんですよ。
お堂の中に、お日様みたいな光がきらきらしていたんです。
お地蔵様にお断りして入ってみたら、お足元に、天使みたいな赤ちゃんが籠に入っていて」

ぬくもりが、手の先から背中を包んだ。

「もし、あなたが黒い髪だったら、気がつかなかったでしょうねえ。
もう泣く元気も無かったんですから。
この髪が、私とあなたのご縁の始まりなんですよ」

それでも嫌ですか?

撫でる掌が、尖っていた気持ちをなだらかにしてくれて、
ごめんなさい、と口を開きかけたとき。
続いた言葉は、わだかまりごと、頭の中を吹っ飛ばした。

「お地蔵様のところで見つけたんだから、私は地蔵って名前にしようと思ったんですけど、
奥さんにそれは流石に、って止められて」


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「うっわ、それきついですね...」

半笑いの八戒の唇の端が、小刻みに引き攣った。

「笑っても構わねぇよ。ってか笑うしかねえだろ」

「す、すいません...くーっ...」

八戒はテーブルに突っ伏して肩を震わせた。
握り締めたままのビール缶がベコッと潰れる。

「奥さんが、その年来た三人目の子供だから、って言ってくれて三蔵になったんだと。
そのときはもう危うく地蔵になるとこだったってことで頭パンパンになって登園拒否したのも忘れたぜ...」

「...そのお師匠さんて、全方位的に凄い人ですね」

笑い過ぎて攣りそうだ、と脇腹を押さえながら、八戒は飛び散ったビールの泡をティッシュで拭いた。

「三蔵さんの、なんていうか最初の社会的クライシスのスイッチを劇的に逆転、しかも脱力オチでしょ」

「ああ。誰も敵わなかった。
どんなに意地張って、その意地にがんじがらめになって足掻きがつかねえようになっても、
あの人は、すらっとそのもつれを解いちまって。あんたの、スイッチっていう表現、合ってるな」

意地、口惜しさ、反撥、様々な負の感情に絡め取られて、真っ暗な視界が、
さらりとほぐれて、光に満ちる。そこにはいつも、あの人の笑顔があった。

「...三蔵さんの技は、その方の直伝なんですね」

「は?」

八戒はつと立って、流しに伏せてあったビールの空缶を次々に漱ぎ始めた。

「僕が兄さんや悟浄さんと一触即発になる度、うまく流れ変えてくれたでしょ。
言訳にしか聞こえないと思いますけど、僕、ほんとに、今回は、兄さんが疑ってるみたいな動機じゃなかったんです。
今度の連休に連れて来るって実家に連絡あって親が大騒ぎしてて、
なんせ、来る者拒まず去る者追わずで、訊かれても相手の名前忘れてたりしてた人ですから。
生活能力がご存知のレベルでしょう、末永く面倒みてくれる人なら熨斗つきでお願いしたがってるんです。
だから、弟としても、近くまで来たんだから、様子見がてらご挨拶も、って思って。
だのにいきなりなじられて、キレちゃっ...自分がやってきたことのツケだって判ってるから逆ギレしちゃって」

最後の缶を水切りに上げても、八戒は流しから動かず、三蔵に背を向けたままで居る。

「兄さんと寝たんです。兄さんが捲簾さんと会うちょっと前。それで判ったんです。
兄さんの関心を引きたくて、兄さんの恋人に手出してたんだって。
妙な具合ですけど、それでなんだか憑き物が落ちたみたいになって。
会ってみたら、捲簾さんがすごくいい人で兄さんを大事にしてくれてるから、
素直に兄さんの幸せを喜ぼうって気持ちだったんです。
...やだな、言葉に出してみると我ながら嘘っぽいです、あはは」


兄も、弟も、言うべき相手でなく、何故自分の前で、
血が出そうな本音をさらけ出すんだろうか。

スイッチの一言を探そうにも、三蔵も疲れ過ぎていた。
微かに震えている八戒の肩に、ぎごちなく手を置いた、その瞬間に。

バン!と玄関が開いた。

「...何しに来たんだ、お前?」


光明様は晩年のボブのおぐしでイメージしておりますが、
書家だからポニーテールでもOKかも。


47:ジャックナイフ coming soon...



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