松乃緑

朝帰りの高い敷居を跨ぐのも、初めてでもあるまいに。

(…ここん家では、初めて、だっけな…)

明烏が啼きおさめて、塒に帰る頃合。

寝もやらぬ夜の巷とはいえ、さすがに人通りもない。
悟浄は二重廻しごと、裾をからげ、とんと枝折戸を飛び越えた。

芸者家に奉公に来て半年、未だ朝起きの癖が抜けないおすみが、
目を擦り擦り、箒を手に出て来る。
その隙に、するりと勝手口を潜った。

玄関に下駄を置くと、抜き足差し足、茶の間を横切る。
音を忍んで上がった二階の、襖の白さが眼にしみる。

(…えい!)

平らな自分の床を踏み分け、目を凝らす。
水が流れるような襟足。

玄人の意地は、金と義理で縛られた旦那にだけ立て通すものでなく。
は、乱れた寝起きを、情人(いいひと)の前にも曝したためしはない。


「お帰り」

繊い手が一枚一枚、上掛けをはね、
もう一方の手を力にゆっくりと起き直る。
すんなりとたたまれた膝の下は寝皺すら残らない。

二ツ折の紫の畳紙(たとう)を枕の下からすらりと抜き出し、
雨戸の隙間の光を頼りに、鬢のほつれを撫で付けて、
鏡に映った男の顔に、おは仄かに笑みを見せた。

「…あ、」

あの夜も、惚れ惚れと眺めた、起き様だった。



月の明るい、残暑の夜だった。
細く開いた雨戸に手をかけ、飛び込んだ。

煽られた裾濃の蚊帳に、そのまま転げ込んだ。

この女(ひと)は、今と同じように、ゆるやかに身を起こし、
切長の眸を、息を弾ませた悟浄の顔に据えた。

階下から、格子戸を忙しなく叩く音。

「夜分すまねえが、開けてくんねえ!」

「…ま、じっとしておいでなさいな」

「姐さん、どうしましょう…?」

心細げな少女の声。
薄い半纏を撫肩に羽織り、おはすらりと起って降りていった。

「お前は心配しなくていいよ、床(とこ)にお戻り…どなた様?」

「鎌屋の元締んとこの長太郎です、怪しい野郎が来ませんでしたかね?
ちょいと、検めさせて貰え…」

「いやですよ、」

艶やかに笑みを含んだ声は、毛筋ほどの乱れもなく。

「女所帯ですよ?兄さんみたいにいい男に、こんな時間に戸を開けちゃあ、ね」

「参ったな、姐さんにかかっちゃあ…
妙なことがあったら、遠慮なく声上げてくんねえよ、駆けつけっから」

男の声はよほど和らいで、足音も静かに遠ざかっていった。


「…姐さん、すまねえ。ばれて迷惑かける前に…」

「今出てっちゃあ、すぐ見つかっちまうでしょうに」

言いながら、絞った手拭を差し出した。

「足と、その辺拭いてくださいよ」

柔らかな貫禄に押されて、悟浄は大人しく、跣の裏と、汚した畳を拭いた。

「おおかた、元締に秘密(ないしょ)で立てた場で振るか引くか…?」

「お手の筋…」

「ひとごろしか、切取強盗ならとにかく…突き出す野暮はいませんよ」

引き寄せた煙草盆の火種が、明けてきた薄闇に瞬いた。

「ま、一服おつけなさいな」

帯に下げた印田は、幸い無事だった。

「…こいつぁ、美味え薩摩刻(さつま)だね、姐さん」

蚊遣りと交じって、流れていく煙越しに、眸が合った。

「兄さん、名は?」

「悟浄…沙悟浄」





ゆるりと、膝を廻して、伸びる手が、
縛った束から解け落ちた悟浄の髪を掬う。

「一番風呂が立つ頃だし…お湯、行っておいでなさいな」

階下では、おすみが元気よく米を磨ぐ音がしてくる。

赤銅(あか)の盥、楊枝を抱えてくると、
玄関に立つおが、七本原の風呂敷にきっちり包んだ着替えと、新しい晒手拭を差し出した。

「湯銭は?」

「…オケラ街道じゃあねえよ。…無用心だから、コレ、預けとく」

「ふうん…行ってらっしゃい。」


ちりちりと熱い一番風呂に足を伸ばすと、窓の外ではのどかな雀の声が聞こえる。

の帯揚や、掛襟の裁ち残りをくすねて髪を縛るようになってから、
妙につきが落ちなくて、昨日も勝ち逃げは許さねえ、と引き止められた挙句の徹夜麻雀。

さっき渡したずっしりした財布で、察してくれたろうか。
いや、酒と煙草のにおいと、黝い眼の下の疲れで、夜の次第を読んでくれた…
というのは、男の勝手な思い込み。

今日は恐縮して暮らすとするか。

半ばは性分、半ばは妬かせたいばかりに、
秋波を送る女たちと絡んでみせても、

「妬いた素振りをしちゃあくれねえしな…」

風呂敷を解いてみれば、一番上に、ちゃんと新しく、
今日は、黒でも緋でもなく、浅葱のしぼ縮緬の端布(はぎれ)。


格子戸に手をかければ、抑えた爪弾きがこぼれ出る。

其は浮気な水浅葱…

だらしなく緩みかけた唇もとを引き締め、
悟浄は神妙に下駄を揃えた。




次は誰かさんがそろそろお座敷かける頃でしょう。