佐倉の切炭がぱちりと弾け、悟浄ははっと顔を上げた。

あちこちから、軽やかな挽子の足音が集まってくる音がし始めた。
からりと格子戸が開く音、切火の響き、
走り出す音はやわらかな重みを増し、
膝を赤い毛布(けっと)で覆った潰島田(つぶし)の左褄が眼に浮かぶ。

悟浄は洋燈(らんぷ)を点して二階に上がり、
風呂敷を掛けて部屋の隅に置いた。

は薬が効いているのか、身動き一つせずに睡っている。
そっと手を当てて見た額も、ほんのりと熱いだけだ。


カタンと、勝手口の方で音がする。
が覚めないのを確め、素早く降りた。

「なんだ、声もかけねえで…泥棒みたいだぜ」

「ごめんなさい、あの、これ、京香ねえさんが届けなさいって…
弓香ねえさんに、今晩は、万事任せてくださいって」

「ありがとうよ、今寝てるけど、伝えとくさ」

にっと微笑いかけると、京香の置屋(いえ)の下地っ子は
結綿の絞りの手柄(てがら)よりも真っ赤に頬を染めて帰っていった。

塗りの蓋物には見事な温州蜜柑が盛り上げられている。

ふと、振り返ると、流し元には、布巾をかけた鉢や重箱がひっそりと置かれていた。

「水飴に、…なんだい、大根飴に葛粉に、こっちは梅干か…」

(俺が居なけりゃ、上がりこんでお粥でも炊きだす野郎にゃ事欠かねえな)


静かな足音が階段を下りてきた。

「お京ちゃんが引き受けてくれたって、あそこの置屋(うち)の子が言いに来たぜ。
そこの蜜柑は見舞だとさ」

「良かった…」

「卵酒、造ろうか?」

「そうねえ」

長火鉢を前に座ったおは、洗い髪をつかねて、横櫛で留めた。
唐桟の単衣に緩めの伊達締、縮緬袷の褞袍、
平常(いつも)に似ない伝法な装(なり)だ。
とろりとした本甲の色が黒髪に映える。

「お神酒の方が、ね?」

すっきりとした顔は殆ど風邪気は抜けたようだ。

「じゃア、お燗つく間になんか、買ってこよう…横丁のおでん、どうだい?」

「いいねえ」

「何がいい?」

「お見繕いで」

銅壺を茶の間に運び、薬缶の湯冷ましを注ぐと、
繊い手が袖を捉える。

「襟巻…」

「ああ」

絹編みの黒い襟巻を対の羽織の上から巻きつけ、
悟浄は深皿を抱えて出た。


夜気が藍色に垂れ込た中、軒灯がやわらかく照った待合の門口から、
弦歌の響きが流れ出て来る。

一本通りを越した横丁は暗く静まり、だしのいい匂いだけが道案内だ。

まだここらでは宵の口で、突き込んだ暖簾の間は人影が無かった。

「弓香姐さん、どうだい」

「早耳だねえ、親仁(おやじ)さん」

「美い(いい)女の噂は早いが相場よ。ほら、皿貸しな」

竹箸が手際よく、豆腐、ハツ頭、福袋、すじ、ごぼう巻と盛り付けていく。

「兄さんは?」

「あ、大根と、つみれと卵に、福袋…」

懐に手を入れると、親仁は首を振った。

「俺から見舞いだって言ってくんな」

「悪いね」

「なに、お前さんに礼言われる筋合いじゃねえさ。
そんな暇があったら冷めねえうちに持っていきねえ」

「ああ、韋駄天で帰るわ。ご馳走さん」

のめりの下駄の鼻緒はまだきつい。
晦日にいつのまにかたたきに並んでいた新品だ。


「お待ちどう」

「丁度お燗ついたわ」

悟浄は皿を置いてすぐ、玄関と勝手口でガタガタ音を立てている。

蝶足の膳にはもう、皿小鉢が並んで、すっかり支度が出来ていた。

「さ、これで邪魔も入らねえし…」

「もう心張を架ったの、気が早い」

鬢(びん)をかきあげると、藤色のふりから腕の内側の白さがこぼれる。

「八つ頭にお豆腐ね、嬉しい」

(…あの親仁、ちゃんとおの好きなもん、つけてやがる…)

「悟浄?」

袖を押さえたおが、ちろりを手に待っている。

「こっちで」

湯呑に貰って、ぐっと呷る。
冷えた体にしみわたった。

「さ、」

ぐい呑に受けたおはゆっくりと空けた。

「ああ、おいしい」

縁越しに微笑う、切れ長の眼もとにほんのりと血の色がさす。

(…たまんねえな)

膳を押しやり、肩を抱き寄せる。

「…冷たい」

結城紬の肩に頬を押し当てたおが呟く。

「あ、悪ィ」

「火照ってたから、気持ちいい…こんな風邪位で意気地なくっていけないんだけど」

紅をつけない、あどけない唇が微笑った。

「居てくれて良かった」


初音・終





こっから先は喋っちゃいけねえことになってますんで…。
どうしてもお聞きになりてぇ方は後で楽屋にいらして頂ければ、
差しでしみじみお聞かせしてもよござんす。
(八代目三笑亭可楽)
などといってもまだ裏行きの噺なんぞは始まっちゃあおりません。(笑)
和事もじきに書けりゃあいいんですが…どうかな。
次は誰かさんたち登場のにするか、どうしようか…
思案もなしにのんべんだらりと続く。