喉、渇いた…」

彼は笑って、窓を開ける。

さっと流れ込んで来た新鮮な空気が頬を刺す。

「はい、さん」

顎を乗せた炬燵の天板の上に置かれたのは、

雪にまみれた蜜柑。

雪は、たちまち溶け始めて水溜りを作るけれど、

丸い果実が溜めた冷気は鼻先に漂ってくる。

「どうしたのこれ」

「さっき、外のお湯の帰りに買ったんですよ。出口で売ってたでしょ」

「そうだっけ…」

洞窟のお湯はサウナ並で、のぼせる寸前まで浸かって、

私はぼんやりしていた。

というか、この温泉地に来てからずっと、

はっきりものなど考えていないかもしれない。

冷えた布が背中から抱きすくめる。

入ってきた脚が火照った脚を挟む。

気持ちいい。

「二人羽織しましょっか」

炬燵からそれだけ出している顔の前で、

筋張った手が蜜柑を剥いて、

丁寧に筋を取り、口に押し込んでくれる。

「つ、めた!」

「凍ってます?」

「ううん…おいしい」

きしきしと言いそうに冷えているけれど、

新鮮な果汁はするりと喉に落ちた。

「皮は凍ったみたいですね」

ぼろぼろ崩れるなあ、と言いながら

彼は綺麗に剥いた袋を次々に食べさせてくれる。

「二人羽織って後ろの人、見えないんだよね…

だからお蕎麦鼻にいれちゃったり」

「そうしましょうか?」

ふざけて、鼻に押し付ける指に噛み付く。

「困ったお嬢さんですね」

洗いっぱなしの髪をつかねて、項に唇があたる。

ごりごりした感触。

「八戒も…髭、生えるんだ」

「ああ、これで3日剃ってませんからね。新記録かも。嫌なら剃りますよ」

「ううん」


私は香水を忘れて来た。

彼は何か忘れたりしない人だけれど、やっぱり香水無しで過ごしている。

お湯に行く度に着替える浴衣の糊の匂い、お湯の匂いだけに染め上げられ、

曇っていく感覚。

下着をつけることももう忘れた。

お湯や食事の隙に敷布やカバーを替えられているけれど

上げられることの無い次の間の寝具で何度戯れているのか…

過ぎたという3日がいつ始まったのかも定かではない。

宿の人も、ゆき合わせる人々の顔も意識を掠め流れて、残らない。

かたちのない熱と、湯気と、雪の降りしきる様だけが意識を塗りつぶす。

化粧もしない皮膚が乾くこともない。


ゆっくりと襟もとから入ってくる

果実の匂いの指が、

胸のふくらみを撫で上げて、尖りを摘む。

「んっ…」

お湯に疲れて怠惰になった体に、感覚だけが、

安らぐことも知らず彼の愛撫をむさぼる。

くねる半身の動きも、吐息も、

もう計算を取り落として、

ただ、感覚のままに、

刺激を与えている彼の名も存在すらもよぎることはない。


浴衣の裾をかき寄せ、腿を抱え上げられると、

一段と熱いものが、当たる。

入り込んでくる熱量に、布団に潜っていられなくなり、

思わず天板を掴んで抗う。

けれどその弾みに、彼は全てを納めてしまう。


「動いて」

「ん…ぅ」

ひたすらに、浮かされる、熱に、

粘りつくように身を委ねて、

灼き切れて訪れる深い眠りのゴールを目指すのだけれど、

力が入りきらない腕が、がくりと落ちる。

その途端、やわやわと這い回っていた指が、

痛いほど腰を抱き締めた。

「あうっ!」

突き上げられる勢いで、天板に突っ伏してしまう。

胸に、櫓が食い込んで痛いのに、

背中から脳天まで駆け上がる快感が何もかもをぼやかしてしまう。

二人分の重みで揺さぶられ、

ぎくぎくと揺れて軋む板の木目と縁の模様だけが、

妙にくっきりと眼に刻まれ、

「あっ、あ、いや、イクぅ…っ!」

…っ!」

荒い息だけが、部屋を充たしていた。

「…立てない…」

「内風呂で」

引きずり上げるように炬燵から出される。

身を捻った拍子に、内腿を伝う感覚。

「や、だ…始まっ…?」

脚を閉じ、ねじくれた浴衣の裾で抑えようとすると、体ごと掬われた。

「…違いますよ、僕のです。二週間前に来たでしょ」

「つけて、なかっ…」

「来てからいっぺんもつけてませんよ」

二三歩の間に、浴衣は落ちて、

やはり掛け流しの小さな内風呂で、膝に抱かれる。

まろやかな湯が何度もかけられ、

彼の名残が流れ落ちていく。

いくらかは、私の中に残るのだろうか?

どうでもよかった。

今、熱い湯気と、抱いてくれる腕と、やわらかい唇があればよかった。

湯気が吹き流され、

小さな灯りとりの窓が灰色の空を切り取っているのが眼に入った。

この街に降り立った瞬間がフラッシュバックする。

お湯とは温度の違うものが、頬を流れ落ちた。