086:肩越し

前提知識:身長は幸村・175cm 柳生・177cm 柳・181cmです



「じゃ、先輩、お疲れッス」

「じゃあね」

「お疲れ様です」

切原の癖ッ毛が本厚木駅のホームの人波に消えるとほぼ同時に、

どっと、各駅からの乗り換え客が雪崩れ込んだ。

綾瀬行き準急の連結車両の壁際にいた背の高い少年たちも、

あれよという間に、反対側の扉際に押し込まれる。

「幸村くん、大丈夫ですか?私のバッグが当たっていませんか?」

首を捻向けてみようとしても、ラケットバッグが邪魔で幸村のシャツの肩先しか見えない。

「大丈夫、俺のは床に置いて、柳生のが乗っかるようにしたから」

幸村は抜かりなく、ドアと、積み重ねたバッグの隙間と、

何とか吊り革を捕まえた柳生の間に位置を占めたらしい。

「なんなら、私に掴まって下さい」

「うん、ありがと」

細い手が、軽く左肩に置かれた。

「柳君も…」

「ああ、済まんな」

柳は柳生と対面する位置に立っている。

右肩に担いだバッグが柳生に触れないようにという心遣いだろう、

柳が身を逸らせて、柳生の右腕に手を置くと、さらりと流れる髪が、柳生の頬を掠めた。

涼しい香りが、ふっと立ち昇る。

彼がポケットにいつもしのばせているという匂い袋の香りだ、と柳生は思う。

全国区トップのテニス部ともなれば、シャワールームも専用に設けてあり、

部員はさっぱりと汗を流して帰ることができる。

石鹸やシャンプーは各自好みのものを持ち込んでいるが、

柳のそれは皆、無香料だ。匂い袋の香りを損わないためだろう。

柳の和風な身嗜みが、柳生には、一々新鮮で、奥床しく思われた。

(いつか、なんと言う香りか訊いてみたいですね…)

部活後の疲れも手伝って、目の高さにある柳の静かな顔を、

ぼんやり見つめていた柳生は、突然、息を呑んで固まった。


「んー、いい匂い」

きっちりと着込んだシャツの襟が後ろに引っ張られて、

ほんの少しの首との隙間に、温かい感触が押し付けられたのだ。

「ゆ、幸村、君、何をなさって…?!」

「柳生の匂いを楽しんでるんだけど」

「わ、私の、…うわっ」

肩がぎゅっと、掴まれて、耳朶にもっと柔かい感触が温かく触れる。

囁きが、注がれる。

「ウェルシュ・ラヴェンダー…でしょ?」

「は、はい」

柳生家では、母の趣味で買い揃えられる浴用品の類は殆ど英国製で、

最近はラヴェンダー、それもウェールズ産の花を使ったシリーズに統一されていた。

長男は、比呂志さんのクラブ活動用に、と買ってきてくれるトラベル・キットを便利に使っている。

「ふふ、柳生の耳っておいしい」

肩の重みが消えると、エアコンの風にすっと、耳が冷たくなる。

(濡らされた…?あれは、幸村君の、くちび…)

かあっと、柳生の顔に血が昇った。

『ただいまより、工事中の区間に入ります。揺れますので、お近くの吊り革ないし手すりにお掴まり下さい』

「ごめん柳生、片手じゃ無理そう」

混乱したままの柳生の腰に、するりと、腕が巻きつく。

ぐっと密着した体の一部が、熱っぽく、質量を主張している。


筋肉のつき方も目立たない、しなやかなその腕の勁さなら、

コートで何度と無く味わっていた。

そう、今日も、コートに情けなく膝を屈して、声も出ない程、息を切らせて、

やっと見上げた、逆光の中の姿。

黒い影なのに、いつもの少女のような笑みを浮かべていたるのがありありと判った。

「また、速くなったね、レーザービーム。でも、俺にはまだ通じないよ」


悔しい。

見えないけれど、あのときと同じ涼しい顔で笑っている声だ。

頭の後ろを、冷やりと滑り落ちていく、悔しさ。

細い手が、そろりと下肢に伸びてくる。

トラウザースのファスナーの辺りを包み込み、微妙に探った。


(俺は、あんたら、バケモンを倒す…!)

勝ちたい気持ちがいくらあっても、切原のように声に出すにはずる過ぎる自分。

到底倒せないと、判って居るから。どこかで諦めてしまっているから。

病床から帰ってきてなお、彼は、途方もなく、強かった。

切原の、「化け物」という形容に自分も引きずられて、

いつしか彼をただの同級生とも、男とも認識しなくなっていたのかもしれない。

だから、多分にふざけた気分が混じって欲情している彼の中心も、

自分の下肢に触れてくる手も、生々しさを一切、感じなかった。

嫌悪も、まして快感も。


「幸村、セクシャルハラスメントだぞ、お前は部長という立場なんだから」

「えー、俺、部長権限でシテるわけじゃないもん」

車外の騒音と、声高な女子たちの話し声を縫うように、左右の耳に注ぎ込まれる、低い囁き。

止めるそぶりをしながら、柳の声も無責任に面白がっている色がある。

とにかく、次の駅まで無視して耐えるしかない。

この部長は、こういうところはいたずらっ子でしかない。

反応するほど喜ぶのだ。

だがぎゅっと目を瞑った拍子に、腿にもぐっと力が入ってしまったらしい。

「あ…イイ感じだよ、柳生v」

挟み込む形になってしまって、幸村の声が甘くなる。

「柳生も、感じてよ」

「お前さんじゃダメじゃき、俺に任しんしゃい」

突然、仁王の声が右耳に入って、柳生はびくりと身をすくませ、目を見開いた。

だが、見えるのは…吐息がかかるほど近く居るのは、泰然と立つ柳だけだ。

「驚いたかの?伊達にペテン師言われちょらんよ、達人にだって化けられるき」

(仁王君…だった?!そんな、だったら、帰るときのあれは…?!)

060:轍へ続く

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