愛する神の歌

8


「悟能先生のこと、僕に話してほしいんだ」

は、俯いて髪の先をいじり、また、おずおずと目を上げた。

彼は穏やかに微笑んでいる。

開かれることのない眸に、 の目は吸い寄せられたように動かない。

「悟能先生…」

ぽろりと、大きな瞳から、涙が落ちた。

「いないの」

小さな、掠れた声だけれど。

確かに、はっきりと。

は、答えた。

「そう…いないの…さんは、悟能先生に、会いたい?」

「うん…でも、…いい子にしてないと、だめ…」

の瞳の光が、ぼんやりとしてくる。

また、茫洋としたにぶい色に塗り潰されて、彼の顔に注ぐ視線も、温度を失った。

「また、来て、話して下さいね。僕は知りたいから。さんのことも、悟能先生のことも」

彼は、その言葉が、耳に入った様子もないに、苛立ちも何も見せずにいる。

俺達は、が彼に連れられて、その部屋から出る前に、隠し部屋を出て、待合室に滑り込む。


初めて、八戒と、彼に会いに行ったときは正直、驚いた。

そこは、あの女医のところと同じように質素な普通の家に、相談に来た者と対面する部屋があるだけ。

それも、まるで居間のようなごく普通の部屋だ。

ありふれたカーペットを敷き詰めた床の真中に、低い座卓。

一面の壁には雑誌や絵本、ぬいぐるみや玩具まで雑然と並ぶ棚。

隅っこにはややぼさぼさしたベンジャミンの植木鉢。

そして、俺達に座布団を勧めて向かい合った彼の眸は閉じられたまま。

「王先生から、どのように聞いてこられたんでしょうか?」

穏やかな声。そして整った繊細な顔は深い淵のように静かで、感情を表しながら、乱れることは決してなかった。

「僕らが、世話をしている子の、心の問題について、あなたに解決する力がおありだと伺いました。

それとここの住所と電話、それだけです」

「そうですか。じゃ、簡単に、僕の資格をお話しておきます」

彼は、医学校を出て、始めは普通の精神科医として開業していたが、

ある患者の通院に反対していた家族が押し入って、眼を傷つけたため、医師の資格は喪失した。

今は週何度か、母校の研究所に通って研究と執筆をする合間に、

王医師らに紹介された人を、被験者となってもらう、という形を取って、話を聞く。

「ですから、僕がお話を聞くのは、公的には治療行為ではないんです。

ただ…実験や研究も、究極には心に重荷を負っていらっしゃる方々に手を貸す手段の探求ですから、

被験者の方の心の重荷を取り払う為に全力を尽くしますし、それで結果を出せる場合もあります」

八戒と俺は、顔を見合わせ、眼で頷きあった。

これだけの短い時間で、彼はもう俺たちの警戒を解いてしまっていた。

王医師と共通する、凛とした揺ぎない良心が、彼には感じられたからだ。

「わかりました…その子の事情は、予めお話しておいた方がよいでしょうか?」

彼の、見えない目が、じっと八戒に据えられた。

「そうですね、事実だけを簡単に伺っておいた方が良いでしょう…

八戒さん、悟浄さん、ここから先は止らないことだとご了承頂けますね?」

「…どういうことでしょう?」

「心の問題を解いて行くためにすることは、外科手術と実は変わらないんです。

顔の皮膚と肉を剥いで、下の頭蓋骨を剥き出しにするとき、

眼窩は見たくない、顎の関節は見たくない、といっても、否応無しに眼に入るでしょう?

ほとんどの場合、問題の解決には、骨にあたる真実を暴いていかざるを得ないんです。

真実は、本人以上に、周りの方々にとって残酷で直視しがたいものであるのが、むしろ普通ですよ。

あなた方が今、その方の保護者で、その方の問題に立ち向かうのだとしたら、

僕が引き出してしまうかもしれないことは全て、受け容れて頂かなければならないんです。

これは受け容れられるが、あれは見たり聞いたりしたくない、という振り分けはできません。

いったん、僕がその方と対話を始めたら、その方自身が僕を締め出さない限り、

僕は途中で追求を止めることはありません。

そこを了承して頂きたいんです」

「…わかりました」


八戒は、彼女が両親の惨殺現場と祖母の死に遭って以来、感情を表さず、

外からは退行状態に見えること、その状態のまま、客を取らされていたこと、


「悟能先生」という言葉だけをたまに口にしていたが、

自分たちが引き取ってからは言わないし、他のことも自分からしようとはしない、と

いった事情をなるべく簡単に話した。

「…『悟能先生』というのは、あなたと何か…

それと、彼女の状態を作り出すのに、何か関係があるのでしょう?」

問いというより、確認だった。

八戒の顔が引き攣り、漸くのように、声を押し出した。

「…どうして、判ったんですか?」

「あなたの、声が…というか、話全体の調子からです」

正直、俺も冷やりとした。

さっき彼が言ったことは何も大袈裟な話ではなくて、

俺たちは何も隠すことは出来ないのだ。

でもきっと、からも何かを引き出す力を、この人は持っている。

俺たちは、彼女を連れてくる時間を決め、辞去した。

玄関で送り出しながら、彼は静かに言った。

「どうか、その方に、あなた方も心を開いて下さい。

訪ねて行って、気軽に歓迎してくれる相手には、自分もあっさり扉を開けられますよね?

相手が心に戸を立てていたら、自分も開くことはできないでしょう?」


また、どきりとさせられた。

俺たちは、を守ろうと、癒そうとしてきたけれど、

をひとりの人間と認めて、向かい合ったことはあっただろうか?

そして…八戒が、の前で繕う笑顔…あれは…

俯いたまま歩いてきた八戒が運転席に乗ろうとするのを、

黙って押しのけ、俺がジープのエンジンをかけた。

「…僕らも、あの人に皮を剥がれてしまうんでしょうね」

「ああ」

「もしかして、自分を取り戻したは、僕を殺すかもしれませんけど」

八戒は漸く、俺を見て、苦く笑った。貼り付けた綺麗な笑みでない笑いだった。

「そうなっても、僕はあの人に賭けます」